なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(21)

   「姦淫に関する教え」 マタイ5:27-30  2019年2月3日(日)船越教会礼拝説教


・橋本大三郎によりますと、私たち人間は三つの空間を生きていると言われます。一つは性愛空間、二つ

目は言語空間、三つ目は権力空間です。この三つは人間のコミュニイケイションと考えてよいと思いま

す。身体と身体とのお互いの直接的な関係、言語を介したお互いの関係、そして権力を介したお互いの関

係です。


エレミヤ書の説教では、2番目の「言語を関したお互いの関係」と3番目の「権力を介したお互いの関

係」についての説教がほとんどだったと思います。1番目の性愛空間、「身体と身体とのお互いの関係」

については、全くと言ってよいほど扱いませんでした。エレミヤ書のテキストには、1番目に関係する箇

所がほとんどなかったからです。


・今日のマタイによる福音書が記しています「姦淫」の問題は、次の「離婚」の問題と共に、橋本によれ

ば、性愛空間の問題です。現在の私たちの中では「姦淫」という言葉は死語に等しくあります。むしろ

「不倫」と言い換えた方が分かるでしょう。事実本田哲郎さんの訳では「不倫」となっています。


・「不倫や離婚」と言いますと、現在の日本の社会におきましては、ごく当たり前な出来事と言ってよい

かもしれません。取り立てて不倫や離婚が信仰の問題になるのか、おそらく疑問をもたれる方も多いで

しょう。しかし、カトリック教会では結婚は秘蹟のひとつであり、今でも離婚は禁止されています。


キリスト教は、歴史的にはこの人間の性愛の問題に対しては強く関わってきました。禁欲と独身主義は

その顕著な例です。2世紀ごろには、「独身生活の方が結婚生活より優位にあることは、パウロの名のも

とに、ほとんど疑われなかったようです」。「マルキオン、モンタノス、テルトゥリアヌスなど、この時

期には独身主義を唱える人びとが多く排出しました。なかでもマルキオンの教説(おしえ)は極端です。

マルキオンは、肉体を忌まわしいものと思いました。生殖も、成長もです。(中略)マルキオンのキリス

トは天から大人としてくだりたもうたのです。マルキオンは個人としても女性との性関係から遠ざかった

ばかりでなく、すべてのキリスト者たちに結婚を禁じました。


・洗礼や聖餐の聖礼典は、童貞者、未亡人、《結婚の完成を放棄することを共に同意する》結婚した夫婦

たちに限られた』」というのです。マルキオンは異端とされた人物です。


・そして、「教会が信徒に課す性愛倫理は、次第に抑圧的なものとなっていきます。パウロアガペー

印として、信徒同士が接吻を交わすように要請し、初期教会ではそれが普通の慣行でありました。しか

し、5世紀までに、異性間の接吻は教会規則によっ禁止されてしまいました。3世紀前半に活動したオリ

ゲネスは、自発的に去勢し、独身者となったことでも有名です。彼は、キリスト者の結婚を認めはしたも

のの、性交は子どもを産む手段としてしか正当化できないとしました。・・アウグスティヌスは、・・・性と

原罪とを同一視しています。しかも<「性交から生まれるものはみな罪の肉」なので、罪は遺伝していく

ことになる。イエスを除けば童貞の幼児も罪を背負っている。すべての人びとは、教会が与える秘蹟なし

には、救われないのである>と言っています。このアウグスチヌスの性愛観によって、「正統キリスト教

の性愛観はほとんど完成にいたる。・・・」と言われています。


・イエスユダヤ教的な性愛倫理のもつ矛盾、特に女性の人権を無視した規範を、ある意味で無化したと

言えるでしょう。たとえば、「姦淫するな」という戒めはユダヤ教においては行為としての姦淫を意味し

ました。イエスは、それを情欲としての姦淫という形にまで、拡大解釈しています。そして、


・「もし、右の目があなたを躓かせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなって

も、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたを躓かせるなら、切り取って捨

ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」(29-30節)。


ヨハネによる福音書8章の「姦淫の女の物語」では、姦淫の現場から連れてこられたのは女であって男

ではありません。姦淫の現場には男もいたはずです。「姦淫するな」という戒めがユダヤ教社会の中で

もっていた、このような非人間性を、イエスは情欲を持って女を見る者は既に姦淫したのである、と言う

ことによって、批判しているのでしょうか(田川健三)。


・一方ボンヘッファーは、このマタイの記事を文字通り受け取っています。少し長くなりますが、ボン

フェッファーの言葉を紹介させていただきます。


・「イエスに結びつくことは、愛のない情欲はいかなるものであれ、ゆるさない。かえって、それを禁じ

るのである。主に従うことは、自己否定と、完全にイエスに結びつくことであるのだから、いかなる場所

においても、自分の情欲に支配された意志は、自由にその道を歩むことはできない。たとえ、瞬時であろ

うと、そのような情欲は主に従うことに障壁をつくり、全身を地獄におとしいれる。それとともに人間

は、情欲というえんどう豆のスープを得ようとして、天での長子の権を売ってしまうことになる。(お腹

を空かせた兄エソウが弟ヤコブからえんどう豆のスープをもらうことによって、自分の長子の権ヤコブ

譲ってしまったと言われる旧約の物語です)。また、禁じられた情欲の代わりに、百倍もの喜びを報いる

ことのできるお方を信じないことになる。見えないものを依頼しないで手っ取り早い情欲の実をとらえよ

うとする。このようにして、主に従う道から脱落して、イエスから離れてしまう。情欲のけがれは、不信

仰である。ただそれだからこそ、それはしりぞけられねばならない。イエスを引き離す情欲から、主に従

う者が自由になることができるなら、どんな犠牲を払っても、大きすぎるということはない。目もキリス

トより小さい。手もキリストより小さい。もし、目と手が情欲に仕え、全身が純粋に主に従おうとするの

をさまたげるのであれば、キリストよりも、それがまずぎせいにされなければならない。情欲のもたらす

ものは、損失に比較すれば、全くとるに足りない。目や手の瞬間的な快楽は得るが、全身を永遠に失うの

である。けがれた思いに仕える目は、もう、神を見ることはできない。」


・だからと言って、「イエスは、弟子たちを、非人間的な戦いへと強制しておられるのではない。何をも

見るな、と禁じておられるのではない。だが、弟子たちのまなざしをご自身へと向けたもうのであり、こ

こでなら、たとえ女を見ても、そのまなざしがきよいことを知っておいでになるのである。このようにし

て、イエスは弟子たちに律法の耐え難いくびきを負わせるのではなく、福音により、あわれみをもって弟

子たちを助けたもうのである」。


・(つまり、イエスは愛のない情欲は否定するが、愛のある情欲をも否定しているわけではないと言うの

です。イエスに向けられた眼差しでもって、愛のある情欲をもって男が女を、女が男を、他者を、きよい

まなざしをもって見ることは許されていると言うのです。)


・「弟子のからだもキリストのものであり、主に従うことの一部であり、われわれのからだは主のからだ

の肢である。神の子・イエスが人間のからだをおとりになり、われわれがその主のからだとの交わりをも

つがゆえに、(愛の無い人間の情欲による)姦淫はキリストとご自身のからだに対する罪なのである」。


・このことは、私たちに性愛に関わる問題に、一つの道を示しているように思われます。


・橋本大三郎は、今日「性愛の解体は、・・・通俗的には性と愛との分離として受け取られている。しかし

もはや一致する必然性をなくした両項は、もとのままの積極的な実体をもつわけではない。分離してし

まったあとでは、性も愛もないのである。このようなとき、具体的な関係に入ろうとする男女が(もちろ

ん、男性同士、女性同士でもよい)、性愛にまつわるニヒリズムから一線を画そうとするならば、互いの

関係の内実を見極め、つきつめて、それにふさわしい性愛規範を創案して自分たちの関係に課するよりな

い。このようなめいめいの形而上学的努力が、性愛を価値あらしめようとする任意の男女に要求される時

代が、現在なのである」と言っています。


・つまり、愛のない情欲によって行われる性交、その強制的な性交が強姦ですが、そのような愛の無い情

欲によって人が傷つくわけですね。そういう愛のない情欲によってではなく、愛のある情欲によってお互

いが愛し合うためには、橋本大三郎は、「互いの関係の内実を見極め、つきつめて、それにふさわしい性

愛規範を創案して自分たちの関係に課するよりない。このようなめいめいの形而上学的努力が、性愛を価

値あらしめようとする任意の男女に要求される時代が、現在なのである」と言っているのです。


・私たちは、信仰によりキリストの体の肢とされていることを大切にして、「姦淫(不倫)の問題」に対

して、お互いにイエスに愛されてある者として、どのような交わり創案していけるかに挑戦していきたい

と思います。