(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)
③ 讃美歌 19(み栄え告げる歌は)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-019.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編40編2-12節(讃美歌交読文44頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 ローマの信徒への手紙14章13-16節(新約294頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 532(やすかれ、わがこころよ)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-532.htm
⑨ 説 教 「自由と愛」 北村慈郎牧師
祈 祷
私は時々、生前連れ合いに対して随分冷たい仕打ちをしたということを思い出して、落ち込むことがあります。具体的なことはここでは言えませんが、自分の言動によって彼女を傷つけたり、悲しませたりしたことを思い出して、もう取り返せませんが、あの時、こうしてあげればよかったという思いです。
このことは、ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)の今説教をしている14章で問題になっている、食べ物や日に関することで、強い者の弱い者への蔑みや弱い者の強い者への裁きに関わる問題につながっているのではないかと思います。
自分が自由に生きることが、他者との関りにおいて、その相手を軽蔑したり、裁いたりする、他者の躓きになっていないかどうかということです。
このことは、福音書の中でイエスが、「最も大切な戒めは何か」と問われたときに、「神を愛することと、自分のように隣人を愛することである」と答えたことから分かりますように、私たちの人生において最も大切な課題であるわけです。
しかし、私たちは自己実現を第一に考えてしまい、そのためには他者を利用してまでもと思ってしまうところがあるのではないでしょうか。
今日の説教の題は「自由と愛」にしました。自分が自由に生きることと、他者を愛することとが、矛盾対立することなく、一つになるような生こそ、イエス・キリストの福音(神の義)に呼応する信仰者の生き方ではないかと、このローマ書の箇所でパウロが語っている内容ではないかと思うからです。
このローマ書の箇所と同じ食べ物のことで、イエスとファリサイ派の人々と律法学者の間で論争になったことが、マルコ7章1節以下に記されています。そこでイエスは、「どんな食物でもきよい」(口語訳)と言っています(19節)。今日のローマ書の箇所では、14節前半ですが、<私もまた、主イエスにあって、いかなるものもそれ自体として穢れていることはない、ということを知っており、確信している>(田川訳、新共同訳では「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」)は、このマルコのイエスの言葉を受けてパウロが語ったものと思われます。
もちろん、<主イエスにあって>と言われていますが、パウロは直接このイエスの言葉をイエスから聞いたわけではありません。このイエスの言葉を伝える何らかの伝承があって、その伝承によってパウロはこのイエスの言葉を知ったということだと思います。
川島重成さんは、<この「それ自体で汚れたものは何もない」とは、ユダヤ教の殻を突き破ったキリスト教の誕生という歴史の画期をしるしづけるスローガンであるにとどまらず、宗教と世俗の区別はないという、今日のわたしたちにとっても最も基本的な信仰のテーゼの表明であると言ってよい」と述べた後、「関根正雄はこの箇所の講解で次のように発言している」と言って、以下の関根正雄さんの発言を引用しています。
<やはりこの問題は突き詰めた所、全生活が神のことで、そこに何か宗教的領域に属することと、世俗の領域に属することが分かれるということはないのだということがここから読み取られてよろしいと思います。…つまり、神の創り給うたものはすべてよいのだということ…すべてのことが神の領域であると見るべきで、だからこそキリストがこの世にこられたのである。ですからこの世から抜け出すことではなく、この世の只中にあってすべてが聖化されることが信仰の問題なんだということは、これはどうも疑えないことだと思う>。
ある人は「それ自体で汚れたものは何もない」ならば、「何を食べようとかまわない」という結論で終わりではないか。それなのにパウロは、「何を食べようとかまわない」と言いながら、最後には「肉を食べない方がよい」(21節)と言うのだから、これはパウロの詭弁だと言っています(田川)。
問題は、コリントの教会の場合と同じく、ローマの教会の「強い人」が、信仰に基づく律法からの解放を主張するあまり、これを受容できない「弱い人」をつまずかせ、ひいては教会の交わりに分裂をもたらしかねないことにありました。パウロはこの段落全体において、彼ら「強い人」に向かって、それが本当の福音の自由か、信仰の真理は愛として現れねばならないのではないか(15節)と警告しているのです。
15節:<もしも食べ物の故にあなたの兄弟が苦しめられるのであれば、あなたはもはや愛によって歩んでいるとはいえない。あなたの食べ物によってその人を滅ぼしてはいけない。その人のためにキリストは死んだのだからである>(田川訳)。
14節後半の<ただ、何かが穢れているとみなす者にとっては、そのものは穢れているのだ>(田川訳、新共同訳は<汚れたものだと思うならば、それは、その人だけ汚れたものです>)は、汚れたものはないのに、あると思う人の思い込み(迷妄)を語っているようにも思われます。もしそうだとしても、この思い込みに囚われて、汚れたものはあると思う人にはあるということを認めざるを得ません。この一見「強い人」にとっては愚かとも思える事態が、パウロ及び「強い人」が直面している深刻な現実でありました。ここで彼らは自分たちの主張する自由とは何か、その実質が問われることになるのであります。
「パウロがここでローマの教会の内部での問題と見なしているこの事態は、イエス・キリストにあって救いがこの世に到来したと信じるキリスト者が、それを信じない人々と共にこの世を生きていくときに、常に問われている課題ではないだろうか」(川島)と言われています。その通りではないでしょうか。
「汚れたものは何もない」とはそれ自体としては否定し得ない真理であります。そのように主張する「強い人」はその限りではあくまでも正しいのです。パウロもそれに賛同しています。しかし15節前半でパウロは、ある食べ物が汚れていると判断する兄弟に、「強い人」が何も汚れていないと言い張り、それ自体としては成立する真理に従って食べるように強要するなら、その兄弟は「苦しめられる(心を痛める)」と言うのです。そこで、そうなら<あなたはもはや愛によって歩んでいるとはいえない>と警告しているのです。
そして、<あなたの食べ物によってその人を滅ぼしてはいけない。その人のためにキリストは死んだのだからである>(15節後半)と語っているのです。「わたしたちがまだ弱かったころ、…キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(ローマ書5:6、8節)。それなにのどうして「強い人」が「弱い人」を断罪することができるでしょうか。「その人のためにキリストは死んだのだからである」。それなにの、どうしてその兄弟を滅ぼしてよいことがあろうか。そのような自由は、果たして本当の自由であろうか、むしろ愛の無さではないかと、パウロは言っているのです。それは自由のはき違えではないかと。すなわち他者への配慮、愛が自由の限界となる、あるいは自由が愛として現れなければならないではないかと、パウロは言うのです。
そこで大事なことは、強い者が弱い者を正しく愛することであります。食物のことで兄弟を苦しめることは、もはや愛によって歩いていることにはなりません。愛はその相手の人の立場に立って考えることであります。では、この弱い人の立場を知りながら、その人を愛するというのは、どうしたら可能なのでしょうか。この愛は単なる同情ではないように思います。
それは、この人とキリストとの関係を考えることであります。この人のためにキリストは何をなさったかを知ることであります。パウロの言葉で言えば、「その人のためにキリストは死んだのだからである」ということです。食物の問題も、神、キリストとの関係から考えて、正しく理解することができました。それと同じように、この弱い人の問題も、キリストとの関係で正しく考えられるのではないでしょうか。そこから私たちは他者を愛する力を得ることができるからです。
そのただ一つの道が、この人のためにも、キリストは死なれたのであることを知ることであります。裁く者は、自分がどんなに強いからと言っても、自分が今このように信仰を持って生きているのは、キリストが自分のために死んで下さったからであることは、知っているのであります。それなら、弱い人も、自分と同じ立場であることが分かるはずです。自分のためにキリストが死なれたことを思えば、自分は弱い人に対しても、誰に対しても誇り得るものは何もないことが分かるのであります。
また、この弱い人のためにも、キリストが死なれたというのであれば、この弱い人がどんな立場にあるかも分かるのであります。彼はキリストという価を払って買い取られた者であります(Ⅰコリ6:20)。そうであってみれば、その人にどういう問題があろうと、その人がどういう事情にあろうと、この人を裁いたり、この人を苦しめたり、まして、この人を滅ぼしたりすることは、絶対にできないことになります。自分と同じ立場だからというだけでなく、キリストという代価の払われた人に対しては、ただ謙遜に、愛をもって対するほかはないのであります。
パウロは、この考えによって、いつも、自分を正しく導いていました。…キリストの死は、パウロにとっては、すべてのすべてでありました。それは、パウロにとってだけそうなのではなく、あらゆるキリスト者の生活が、このことによって定められ、はじめて、正しくせられるのではないでしょうか。
(以上は、ほぼ竹森による)
<だから、あなた方の良きものが冒涜されるようなことがあってはならない>(16節、田川訳、新共同訳は「ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい」)のです。「良きもの」(善いこと)」というのは、おそらく、強い者の自由な信仰生活でしょう。信仰以外の何物にも煩わされない生活がそれであります。…しかし、強い者が、その強さにまかせて、この自由をふりまわせば、折角のその良いものも、そしられることになるかも知れません。そしりの種とされる、という字は冒涜されるということでありますから、非常に強い意味になります。
その「強い人」が誇示する、それ自体では「良きもの」である自由を誰が「そしりの種」とするのかと言えば、文脈から自然に出てくるの「弱い人」でありますが、ケーゼマンは「そしり」という言葉は新約聖書ではほとんど非キリスト者からの誹謗の意味で用いられているので、両方の可能性とも除外されないと述べています。教会内の不一致は外側からもそしりを招くということで、そのようなことがあってはならないとパウロは警告しているのであります。
私はこの箇所の註解で、バルトが言っている「『断罪する』というのは罪ありとすること、怒りに包まれること、神によって疑いもなくたえずなされる行為を意味する。しかし神の行為として、断罪行為は不可視的に罪の赦しと義の啓示と一つである。これに反してわれわれの行為としての断罪は宿命的に一義的である。われわれは棄てたりまた選んだりする神の自由をもたない。むしろわれわれが棄てはじめるとそのとき、われわれはそこにはまり込み、そして神の怒りそのものという偶像を立てることに成功するにすぎないのがふつうである」ということに思いをはせたいと思います。
神の断罪は、断罪に終わるのではなく、神に断罪された人の中に罪の赦しと義の啓示を生み出し、その人を罪から解放する可能性がある。しかし人間の断罪は、一方的で、その人を打ちのめすだけで、新しくその人を立ちあがらせる力はないと言うのです。
強い者にも弱い者にも、キリスト者であろうと非キリスト者であろうと、その人のためにキリストが死んで下さったという「神の義」が、一人一人の存在の根底に与えられていることを覚えて、互いに蔑み、裁くのではなく、支え合いの中で共に生きていくことができますように。主がその命の力を私たちに与えてくださいますように!
祈ります。
- 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
- 神さま、ウクライナに一刻も早く平和をもたらして下さい。
- 貧富の格差が広がり、コロナウイルス感染の中で日々の生活にも事欠く方々や子どもたちが多くなっています。どうかこの社会が競争社会ではなく、相互扶助の社会になりますように。私たちもそのために力を尽くすことができますようにお導き下さい。
- 断罪し合う関係から、互いを尊重し合い、大切にし合う関係へと、私たちを導いてください。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 483(わが主イエスよ、ひたすら)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-483.htm
⑪ 献 金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。