なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(15)

   「心の清い人々」マタイによる福音書5章8節、2018年10月14日(日)船越教会礼拝説教


・今日はマタイによる福音書5章8節の、イエスの祝福の教えの一節であります、「心の清い人々は幸いで

ある。その人たちは神を見る」からメッセージを受けたいと思います。

ところで、この聖句が問題にしています「心の清さ」は、現代の私たち日本の社会ではほとんど忘れ去ら

れていると言えるのではないでしょうか。


・マスコミで最近話題になっている人として、前澤友作さんという方がいます。アメリカの起業家が率い

る宇宙開発会社が計画する月の周回旅行に、民間人として初めて月へ向かう人物として発表されたからで

す。その後この人のことがしばしばマスコミで取り上げられています。以前のライブドア堀江貴文さん

程ではありませんが、時代の寵児のような取り上げ方がされて、多くの人の注目を集めています。この人

は、情報化社会の中で、ファッション通販サイトを運営する会社を創立して、富を築いた人のようです。

かつてもてはやされたアメリカン・ドリームを、この日本の社会の中で実現した人のようなもてはやされ

方をしています。月旅行の他にも、自家用の飛行機を所持し、何十億の現代アートの作品を購入したりし

て、騒がれています。世間ではそういうお金持ちの成功者が注目されるのでしょう。


・また、安倍政権による政治運営のあり方の中には、全く清潔さというものが感じられず、嘘で固められ

ているとの印象を私たちに与えています。森友学園や加計(かけ)学園問題の疑惑はいまだにくすぶり続

けています。財務省による公文書改ざん問題も含めて、虚偽がまかり通っている現実を感じないではおれ

ません。清さからは程遠い偽りの現実です。


・さて、初代教会の信徒=キリスト者への勧告の中に、このような勧告がありました。それは、パウロ

若い同労者のテモテに宛てて書いたという設定で、第一テモテの手紙1章5節に記されています。

≪わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純粋な信仰とから生じる愛を目指すものです≫。


・また、第二テモテの手紙2章22節にも、このように記されています。

≪(そこであなたは)若い時の情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛

と平和を追い求めなさい≫。


・このような初代教会のキリスト者への勧告が残されているということは、初代教会のキリスト者の中で

は「清い心」が大切にされていたことを示していると思われます。そのことは、イエスご自身が、今日の

マタイによる福音書の山上の説教の祝福の教えの一節で、≪心の清い人々は、幸いである。/その人たち

は神を見る≫と語られ、イエスご自身が「清い心」を大切にされたことからきているのではないでしょう

か。


・マタイによる福音書によるイエスにおける清さの要求は、間接的にファリサイ人の態度を批判したもの

だと思われます。マタイによる福音書23章25節以下で、イエスはこのように語ったと記されています。≪

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側

は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせ

よ。そうすれば外側もきれいになる≫(マタイ23:25,26)と。


・ここでは、<ファリサイ主義の祭儀や儀礼固執する態度は何かうわべだけのものとして拒否されてい

ます。マタイにとっては杯すなわち人間の内側を清くすることが問題なのです。「そうすれば」は、清い

人間の意志がその人の外的行動をも規定するはずであると言うのです。ですから、ファリサイ人の「偽

善」とは対照的に、イエスの要求は内側と外側の態度の一致を求めています。両方ともしみがあってはな

らないのです。こうして儀式に執着するファリサイ主義の態度は、それが外面的なものに固執するがゆえ

に、批判されているのです>。


・ところで清さには、相互に相容れない二つの考え方が対立しえいるように思われます。ひとつは、自分

を汚す影響から自分を守ろうとすることによって得られると考える清さです。例えばユダヤ教には食物規

定があります。食べてよい動物と食べてはいけない動物を細かく分けているのです。食べていけない、ユ

ダヤ人にとって宗教的に不浄な食物の例としては、まず豚肉があります。エビやカキやタコも食べられま

せん。牛肉はいいのですが、血の滴るビーフステーキもだめです。フランス料理のカタツムリも、鯛の活

け造りも、親子丼もいけません。ユダヤ教徒はそういう食べると汚れると言われる食物を避けることに

よって、自らの清さを保っていると考えているわけです。ですから、このような清さは、外部からの影響

や諸関係に対して境界線を設けて、これは汚れたものだから自分は食べたりふれたりしないと、区別する

ことによって保つことが出来ると考えられているのであります。


自由主義的な考え方をする人の中には、元来心には高貴さが存在するとして、このイエスの祝福の言葉

もそのような人間の心の清さを指して語られたものだという人もいます。つまり、<イエスはそれによっ

て、心は元来清いもので、心はその清さを守るべきだと表現しようとしているのだと>。


・しかし、このような元来の心の清さをイエスは前提として、この祝福の言葉を語ったのではありませ

ん。マタイによる福音書15章11節に、イエスの言葉として、≪人間の口に入ってくるものでなく、口から

出てくるものが人間を汚すのである≫という言葉が記されています。このイエスの言葉では、元来の心の

高貴さ、清さが肯定的に語られてはいません。むしろ人間の心は汚れたものを生み出す原因、その起源と

して語られているのであります。私たちの心に流入していくものが人間を汚すのではなく、むしろ私たち

の心から流出していくものが人を汚すのだと言うのです。


・ですから、イエスのこの言葉は、外部から私を汚すものを問題にしているのではなく、自分自身が造り

出す汚れを問題にしているのです。その汚れは私たち自身の中から生じるのです。ハンス・ヴェーダ

は、<この汚れに対して私は距離を置くことはできず、せいぜいそれを神の創造性によって破壊させるこ

とができるだけである>と言っています。


詩篇51篇の悔い改めの詩編の一節には、≪神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授け

てください>と言われています。清い心は神による創造で、私たちの中に生来からあるものではないので

す。ですから、私たちが求めていかなければならないのは、私たちが汚れたものから距離を保つことでは

ありません。清さとして私たちから出て行くものについて問わなければなりません。


・<もはや汚れたものから距離を保つことが重要なのではなく、妨げられずにただ清いものにこだわるこ

とが重要なのである。この清さはもはや境界の設定と関係なく、あらゆる清さの源泉への献身である。こ

のことは実存的な結果であるに違いなく、隔離から人間への献身への歩みは自明であるに違いない>(ハ

ンス・ヴェーダー)。


・心の清さは、あらゆる清さの源泉である神への献身であり、人間への献身の歩みであるということを見

失わないようにしたいと思います。


パウロもローマの信徒への手紙3章9節以下で、このように語っています。≪では、どうなるのか。わた

したちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシャ

も皆、罪の下にあるのです。≫と語って、≪つぎのように書いてあるとおりです≫と言って、詩編などか

らの引用をしています。≪「正しい者はいない、一人もいない。/悟る者もなく、/神を捜し求める者も

いない。/皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。/善を行う者はいない。ただの一人もいな

い。/‥‥」(3:10-12)と。


・この人間の否定的な現実を踏まえて、その上でパウロは3章21以下で、一転してこのような肯定的・積

極的な言葉を語っているのです。≪ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証

されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与

えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられないなっ

ていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を贖う供え物となさいました。それは、今

まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。尾のように神は忍耐してこられたが、今

この時にぎを示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義とされる

ためです≫(3:21-26)。


・義とは関係概念で、隔てなく真正面から向かい合う関係を意味します。≪信じる者すべてに与えられる

神の義≫とは、信仰者には、信仰者の実存において、神の新しい創造が起こる神との親密な交わりが与え

られているということです。

「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」というイエスの祝福の言葉を噛みしめめたいと思

います。また、≪わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純粋な信仰とから生じる愛を目指すもので

す≫(テモテ一1:5)、≪(そこであなたは)若い時の情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々

と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい≫(テモテ2、2:22)という初代教会のキリスト者に与

えられた勧めの言葉を噛みしめたいと思います。そしてもしかしたら、正義と愛と平和が失われてしまっ

ている現在の世界の中で、それを生み出す人間の清さが回復されるために、その働きの一端を私たちも

担っていきたいと思います。