「死と命」ローマの信徒への手紙7:7-12、2015年11月1日(日)船越教会礼拝説教
・今日は永眠者記念礼拝です。私は先週の日曜日と今週の月曜日、二日続けて召された方のお別れ会と葬
儀式に出席しました。日曜日は、私が神学校を出て最初に働いた教会の関係者のお別れ会でした。月曜日
は、紅葉坂教会の関係者で、今日この礼拝にも出席しているHさんの弟さんのお連れ合いになる方の葬儀式
でした。お二人は86歳と80歳で召されたのです。それぞれ完全とは言えないとしても、意義ある人生を歩
んで、ご家族に看取られて静かに召されていかれたようです。このお二人の死は、ご遺族にとっては別離
の悲しみは続くかもしれませんが、何時かは受け入れられていくのではないかと思われます。
・このお二人の葬送の式に出席して、その牧師の語る言葉を聞きながら、このような死者を送る葬送のとき
において、聖書の語る慰めの言葉とは何なのだろうかと、改めて考えさせられました。私は、召された方の
葬送の式においては、故人の人となりの特徴を語ることはありますが、故人がこの地上で立派な振る舞いを
した信仰者であるということを強調することはありません。その人なりに精一杯生きたことは語ります。死
者の生前について語れることは、そこまでではないかと私は考えているからです。
・私たち人間は、すべての人が死に支配されていながら、死に抗って日々生きているのではないかと思いま
す。そのように死に支配された人間が、死を越えた命、死に勝利した命を受けて生きていないと、自分の存
在と行為が他者の存在を否定し、他者の命を奪うことも起こしかねません。
・かつて第二次世界大戦においてヒットラーの行ったホロコースト、600万人と言われるユダヤ人虐殺は、そ
の典型的な事例ではないかと思われます。武器を売りさばく戦争で商売する人を死の商人といいますが、人
を殺して生きる、正に死に支配された人間ではないかと思われます。安倍政権は武器輸出によって経済の活
性化を求めようとしていますが、それは正に日本の国が死の商人になるということを意味します。
・人間が死に支配されているということを、そのようなことにまで広げて考えてみますと、私たち個々人の
死だけではなく、この社会全体が死に支配されているようにも思えるのであります。ですから、死について
考える時には、個々人の死と共に、現在は地球規模で現れている死の支配、貧困の問題、難民の問題、環境
の問題、資本の問題、国民国家間の戦争やテロの問題など、人間と自然の命を害う地球規模に広がっている
死の支配についても考えなくてはならないのではないかと思うのです。
・そのような私たちの現実を踏まえながら、今日は先ほど司会者に読んでいただいた、永眠者記念礼拝、聖徒
の日の聖書日課のテキストの一つでありますローマの信徒への手紙7章7節から12節からメッセージを与えられ
たいと思います。
・ここでパウロは何を問題にしているかといいますと、私たち生来の人間がどのような存在であるかというこ
とを問題にしています。このところに「むさぼるな」という、恐らくモーセの十戒を思い起こしていると思わ
れますが、戒めが例に出されています。この「むさぼり」について、船越教会においてある聖書辞典を見まし
たら、このように記されていました。
・<聖書はむさぼりについて三つの点を強調している。➀欲望は社会性に基づいて制御、訓練され、初めて幸
福と正義につながるもので、これに反する「むさぼり」は不正と圧迫を生む(ミカ2:2「彼らは貪欲に畑を奪
い、家々を取り上げる。/住人から家を、人々から嗣業を強奪する」)。△海譴聾朕佑砲箸辰討睛害で自ら
を傷つけ、ついに滅亡を招く(ヤコブの手紙1:14以下「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、
誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」)。M?陛な欲望、すな
わち「むさぼり」は全面的に罪であり、しばしば性的な邪な情欲を生み、また偶像崇拝、すなわち神を除外し
て、物質的な目的や人間的な目標を優先させるようになる。そのゆえに「むさぼり」、「性的不道徳」「偶像
礼拝」はしばしば併記されている。「むさぼり」の反対はおのれのごとく隣人を愛することであり、神が与え
給うものを感謝して受けることであり、聖霊の賜物を熱心に求めることであり、上にあるものに心を置くこと
である>。このように記されていました。
・パウロはこの「むさぼるな」という掟によって、「罪が機会を得、あらゆるむさぼりをわたしの内に起した」
(8節)と言い、「罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして掟によって私を殺してしまったのです>
(11節)と言っているのです。
・今日読んでいただいた箇所に続いて、パウロは、自分自身の体が罪の虜になっていることを言い表していま
す。7章22節以下ですが、<「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの
法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わた
しは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか>
・このローマの信徒への手紙が書かれたのは、パウロが伝道者として活動するようになってから相当経ってい
ますが、彼はここで「死に定められたこの体」と自らのことを言い表しているのです。その自らの存在の事実
を認めた上で、<死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか>と叫んでいるのです。
そして続いて感動的なパウロの言葉が語られるのです。<わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝
いたします>(25節)。<今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キ
リスト・イエスによって命をもたらす霊の法が、罪と死の法則からあなたを解放したからです>(8:1,2)。
・パウロは6章の23節で、<罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエス
による永遠の命なのです>と語っていました。この「今や」「しかし」と言われていることに注目したいと思
います。私たちは「死に定められたこの体」を以って日々の生活を紡いでいます。「しかし」「今や」<キリ
スト・イエスに結ばれている者は、そこから解放されているのだと、パウロは言うのです。ですから、パウロ
は、ローマの信徒への手紙8章31節以下で、高らかに勝利の言葉を語ることができたのではないでしょうか。
少し長くなりますが、そのところを読んでみます。
・<では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるなば、だれが
わたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御
子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴える
のでしょう。人を義をしてくださるのは神のみです。だれがわたしたちを罪に定めることができるでしょう。
死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのた
めに執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難
か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。「わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらさ
れ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わ
たしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。
死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、
低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、
わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:31-39)。
・正に<罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命な
のです>。この永遠の命とは、鈴木正久さんによれば、「永遠い意味ある生」のことだと言われます。「永遠
に意味ある生」とは、与えられた命をそれを与えて下さった方に感謝して、お互いにその命を生かし合う、あ
のイスラエルの民が奴隷の地エジプトから解放されて、シナイ山でモーセを仲立ちとして神との契約を結んだ、
その契約がめざした道ではないでしょうか。一人の神の前に互いの命と生活を奪わない、そのために互いに分
かち合い、支え合い、仕え合う共同体ではないでしょうか。私たちイエスを信じる者たちは、イエスを中心に
集まるその共同体の一員として召されている者たちではないでしょうか。何ものによっても、<私たちの主キ
リスト・イエスによって示された神の愛から引き離すことはできない>そのような死に打ち勝つ命によって結
び合わされた共同体の一員としてです。
・もしわたしたちがそのことを信じることができるとするならば、そのような主イエスにある一つの共同体に
すべての者が連なる時をも信じることができるのではないでしょうか。そのことを信じつつ、なすべきことを
なして、この世を歩んでいく、そのような共同体の一員として生き抜くことが出来るのではないでしょうか。
・昨日の集会(支援会10・31集会)で、発言をしてくださった秦野西教会の信徒のNさんが、ドイツのシリヤ
難民受け入れの背後には、すでにドイツの教会がシリヤの難民を受け入れているという現実があるということ
を報告してくれました。ドイツの教会がシリヤ難民を積極的に受け入れているのは、ナチズムの時代にユダ
ヤ人虐殺に加担した苦い歴史への反省かあるからだというのです。そして難民の中にはイスラム教徒もいて、
イスラム教徒の子供が教会で育って、洗礼を受けるようになることもあるようですが、その子のイスラム教
徒の両親はそれを喜んでいるという話をお聞きしました。もしそれが事実ならば、ドイツの教会は、ナチズ
ムの経験を通して、新しくキリストのからだとしての教会共同体に生まれ変わったのではないかと思います。
・私たちは死に打ち勝つ命の主イエス・キリストに結び合わされた共同体にすべての人が連なる時を信じ、
それにふさわしい現在を、命ある限り紡いでいきたいと願います。そのことが、この世の死の力に対する主
キリスト・イエスにおける何ものにも引き離されない神の愛に生かされた私たちの歩む道ではないでしょうか。