なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

イースター礼拝説教「死んで生きる」

      「死んで生きる」 ローマ6:3-11、2015年4月5日(日)イースター礼拝説教
     
・今日の聖書箇所は洗礼(バプテスマ)について、パウロが書いている所です。洗礼(バプテスマ)って、

一体何なのでしょうか。ここにいます多くの方々は、かつて洗礼を受けた方でもあります。この聖書箇所は、

今日のイースターの聖書日課の箇所の一つです。今日はこの洗礼についてパウロが書いている所から、メッ

セージを与えられたいと思います。

・私たちの教会と同じように誰にでも開かれた聖餐式を行なっておられた小泉達人(たつひと)牧師という

方いらっしゃいました。もう大分前に帰天されましたが、帰天後に妹さんによって『ローマ書新解~万人救

済の福音として読む~』という小泉達人牧師の著書がキリスト新聞社から出ています。

・小泉達人さんは、「パウロの救いの教え(救済論)の本丸は、・・・5章から8章にわたって展開される『十字

架の贖い』である。従来ややもするとローマ書は信仰義認の書とされ、信仰義認があたかもパウロの救済論

の中心のように扱われてきた。わたしはこれには全く納得できない。パウロの救済論の中心はどこまでも十

字架の贖いであり、それは絶対恩寵、万人救済の福音である。」と言って、ローマ書の5章1-11節を挙げてい

ます。少し長くなりますが、その箇所を読んで見ます。

・「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって

神との間に平和を得ており、このキリストのお蔭で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあ

ずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているので

す。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありま

せん。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリ

ストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい

人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし

、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は

わたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのです

から、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の

死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われる

のはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りと

しています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」(5:1-11)。

・小泉達人さんは、救いの恵みを説く時には、感謝、喜び、希望、解放等の、深い情感を込めた言葉と共に

語られるのが自然であろうと言います。ところが、ローマの信徒への手紙においてパウロが、信仰義認を説

く間、それがどこか欠けていたが、この5-8章の十字架の救いを説く章で、それが一気に、しかもあふれ

るばかりに語られていると言い、これがパウロの救済論の本丸である何よりの印であろうと言っています。

・一人の人、アダムの罪によってすべての人に死が及んだ。それなら神の子、イエス・キリストの贖いの恵

みによって、すべての人が救われるのは当然であるとパウロは言うのです。「罪が増したところには、恵み

はなおいっそう満ち溢れた」と。コリントの信徒への手紙一の15章21,22節でも、パウロは「死が一人の人

によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が

死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」と万人救済の教え

を明確に説いています。

・アダムをキリストと対比させるところに、キリストの救いが全人類に及ぶことを強調するパウロの姿勢は

明らかです。一方パウロは信仰義認を説く時には、アブラハムを持ち出して語っています。律法による義認

に対して信仰による義認を説く時には、律法を与えたモーセに以前に遡るところのアブラハムの権威が必要

で、かつそれでじゅうぶんでありました。しかし全人類の救いを説くためには、アダムを否定媒介的に持ち

出す他なかったのです。逆に言えば、アダムが引かれている以上、全人類の救いが説かれていることは明ら

かなのです。

・5章でパウロは十字架の贖いによる絶対恩寵(万人救済)の福音を述べました。このすべての人が救われ

ると説く絶対恩寵の教えは、みんなが救ってもらえるならば、わざわざ苦しい思いをして正しい生き方をしな

くてもよいではないか、という倫理軽視、倫理不要の考えに突っ走りやすいのであります。

・これは親鸞も苦労した問題です。阿弥陀仏による他力本願を意味する「善人なほもて往生をとぐ、いはんや

悪人をや」という悪人正機説を誤解して「悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう」という行動に

出る者が現れたました。親鸞はこの事態を憂慮して「くすりあればとて毒をこのむべからず」と戒めたと言わ

れています。

・さて、ローマの信徒への手紙6章の洗礼(バプテスマ)について記されています、先ほど司会者に読んでい

ただいた箇所も、5章で記した絶対恩寵(万人救済)の福音が倫理軽視、倫理不要とするという考えに対する

戒めとして見ることができるでしょう。当時のバプテスマは、全身水に沈め、そこから引き上げられる浸礼

でした。今でもバプテストの教会では、講壇に水槽が設置されていて、バプテスマは浸礼で行われています

が、一般に行われているのは頭に水をつける滴礼です。浸礼の方が、古い自分に死んで、キリストに結ばれ

た新しい自己に蘇ったのだという、受洗者の感激はより深く、よい強いかも知れません。またサクラメント

の持つ象徴的な命も強く信じられるかも知れません。

パウロは、洗礼(バプテスマ)におけるその感激と感謝を思い起こさせ、「罪は、もはや、あなたがたを

支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」と励ましているの

です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そ

して、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリ

ストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるの

は、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分の罪に対して死んでいるが、キリス

ト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(6:9-11)。パウロは、この洗礼(バプ

テスマ)において、その人間がイエス・キリストの死と復活にあずからされるという事実を語っているので

あります。すなわち、紀元30年、エルサレム郊外のゴルゴダの丘の十字架の上で、かの時、かの場所で死ん

だのは、イエス・キリストおひとりではなく、イエス・キリストとともに私たちもまた永遠に死んだのであ

る。そしてまた、アリマタヤのヨセフの庭園で復活したのは、イエス・キリストおひとりではなく、私たち

もまた、イエス・キリストとともに死者のうちから永遠に復活したのである。単にその罪だけでなく、また

罪人としての特性においてだけでなく、現実に、主体である私たち自身がかの時・かの場所で自らの死を遂

げ、かの時・かの場所で墓に葬られたのである。そしてイエス・キリストの復活に与かることによって、私

たちには、私たちに対する神の恵みだけでなく、神の永遠のみ国における私たちの現実の生活が、したがっ

て栄光に輝く私たちの現実の生活が、かの時・かの場所ですでに始まっているのである。それゆえに、今は

もはや私たちは死なず、いつか世を去るにもかかわらず、またいつか世を去るにしても、私たちにはただ生

あるのみである。したがって、その理由によって、ローマ6章によると、今や私たちは罪に対しても死んだ

者であり、神に対して神に仕えつつ生きる者となったのである」(小泉達人)。

・このことが、イエス・キリストの死と復活において、私たちの身に生じたことであると、パウロは語って

いるのです。そのことが洗礼によって確証されているというのです。それゆえ、私たちはもはやイエス・キ

リストを離れては存在することはできません。イエス・キリストがもはや私たちを欠いて存在なさらないか

らであります。また、それゆえに、私たちはもはやイエス・キリストの外にではなく、イエス・キリスト

内に存在し、万物の最後の時までイエス・キリストとともにあり、新しい天と地があけそめる時、イエス

キリストとともに立つのです。「だから、キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。

古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(競灰5:17)と言えるのであります。

・その意味で、イエス・キリストの復活は、私たちの中に新生をもたらす出来事であります。今年もこのイ

ースターの礼拝に与かり、目には見えませんが、主イエスの復活の命が、この世界と全ての人を包んである

ことを信じ、神の国を生きる者でありたいと思います。神の国には原発も武器も必要としません。神の国

、一部の富裕層の人々と圧倒的に貧しい人々によって構成さされている現在の不公正な現実の世界とは違い

ます。神の国では、旧約のイスラエルの民に与えられた法に示されているように、社会的弱者である孤児や

寡婦や寄留の他国人の命と生活が守られます。人々は神を畏れ、正義と愛によって支え合い、仕え合って生

きます。「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しい

ものが生じた」(競灰5:17)のです。

パウロはコリントの信徒への手紙一の15章の復活について書いている所の最後で、「わたしたちの主イエ

ス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟(姉妹)たち、こう

いうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分

たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(15:57,58)。

・このイエス・キリストの復活による「新しい命」を大切に、今日から始まる一年の歩みをはじめていきた

いと願います。