なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(554)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(554)復刻版を掲載します。2010年5月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(554)[Ⅺ-32]2010・5・9発行)復刻版

 Kさんが5月3日に召されました。6日午後6時から前夜式が教会で行われました。その前夜式の説教の一

部をここに転載させていただきたいと思います。テキストはご遺族の方の希望で、ローマの信徒への手紙

6章23節です。「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによ

る永遠の命なのです」。

 Kさんは4月4日のイースターの礼拝にいらっしゃいました。その時の私の説教が心に響いたようです。私

は、イースターの礼拝説教で、信仰はイエスの埋葬されたお墓に日曜日の早朝かけつけた女たちの、お墓に

来た往路ではなく、イエスの復活を弟子たちに知らせようと、お墓から戻っていく復路を生きることではな

いか、と言いました。そのことに触れた後、以下のようにお話しました。

 私は、私たち人間は死への往路と死からの甦りである「永遠の命」に至る復路を、同時に生きているの

ではないかと思うのです。そのような往路と復路を生きる私たち人間において、往路より復路が優っており、

その輝きを、存在をもって私たちに明らかにしてくれたのがイエスではないかと、私は思い、信じています。

先程のローマの信徒への手紙6章23節におきましても、「・・・・・、しかし、・・・・」に注目しなければなりませ

ん。この「しかし」を何故言えるのか。それはイエスの存在を通してです。ローマの信徒への手紙6章1節以

下には、バプテスマ(洗礼)のことが記されています。キリスト者(クリスチャン)は洗礼を受けて、自ら

がクリスチャンであることを公にいたします。その洗礼は単なる儀式ではありません。ローマの信徒への手

紙の6章4節には、このように記されています。「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に

葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活さ

せられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」と。洗礼によって、一度そこで古い自己に

死んで、イエス・キリストにある新しい自己に甦るのです。「もし、わたしたちがキリストと一体になって

その死の姿にあやかれるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリスト

と共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知

っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリス

トと共に生きることにもなると信じます。・・・・このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、

キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」(6:5-8,11)

 私たちは、生まれながらの私たちの存在が死に極まる道にありながらも、このようなイエスの存在が切り

拓いた命への道に、神がイエスによって招いてくださっていることを信じているのです。その信仰によって、

死に至る道ではなく、命に至る道を歩んでいるのではないでようか。ですから、「しかし」と言えるのです。

「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なので

す。」
 実は、この聖書の「しかし」は、前夜式のテキストであるローマの信徒への手紙6章23節だけでなく、翌

日の葬儀式のテキスト、これもご遺族の方がKさんの愛用の聖書に線が引かれていたという、イザヤ書40章

28-31節の中にもあるのです。「・・・若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、(しかし)主に望みを

おく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(30-31

節)。神のみ業によって、この「しかし」が現実となる不思議に信仰をもって与っていきたいと願わずには

おれません。


            「いのちの杯」       5月9日

 ヤコブヨハネの母が、息子たちにみ国で特別の座を与えてくださるようにとイエスに願った時、イエス

はお答えになりました。「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことが出来るか」(マタイ20:22)。「こ

の杯を私たちは飲むことが出来るか」とは、私たちが自らに問うことの出来る、私たちを試す最も根本的な

質問です。その杯とはいのちの杯であり、悲しみと喜びで満たされています。自らの杯をしっかりと手にし、

それを自分のものだとはっきり言えますか。人々を祝福するために自らの杯を高々と掲げ、救いをもたらす

杯として底まで飲み干すことが出来ますか。

 この問いを私たちの内で生かし続けることが、私たちのなしうる最も厳しい霊的な訓練です。



                   ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)