なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(555)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(555)復刻版を掲載します。2010年5月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(555)[Ⅺ-33]2010・5・16発行)復刻版

 4月の教区の常置委員会には、4月11日の蒲田教会で集会の準備で欠席しました。その時新任教師等13名

の面接があったそうです。普段なら所信表明と質問への応答があるのですが、その時は質問してもほとん

どの人の応答がなく、皆黙っていたそうです。5月の常置委員会でも6名の面接がありました。この時は、

それぞれの所信表明と質問にも一応答えて、発言がありました。しかし、最近の按手・准允志願者及び新

任教師の面接で顕著なのは、日本基督教団の教師になるということがどういうことであるのか、その自覚

がみなさんの発言からはほとんど感じられまいということです。私の時は69年に准允を受け、約10年間正

教師試験の受験を拒否して、79年に按手を受けました。67年に戦責告白が出て、70年には万博・東神大

動隊問題、そして教師検定問題が立て続けに起こりましたので、教団の教師になるということがどういう

ことなのか。特に戦争責任の問題を抱えている教団は、宗教団体法によるその成立においても、戦時下の

戦争協力においても、負の歴史を背負っているわけです。そういう教団の教師になるということがどうい

うことなのかが、当然問われました。教団の教会に仕える教師は無条件によいことをしていくのだという

ような思いは、ほとんどありませんでした。もちろん教会に仕える教師に自分がなることの責任と自覚は

ありましたが、それは教団の負の歴史を背負いつつ、これから何ができるのかという問題意識をもった上

で、自分はこれから教会にあって教師として立っていくのだという思いでした。1960年代後半から、アメ

リカの北爆が激しくなり、日本の社会もベトナム戦争にコミットしていることを知らされました。学園闘

争もいろいろな大学に広がり、学生運動だけでなく、ベ平連のような市民運動も盛んでした。万博キリス

ト教館出展問題から、資本の市場拡大を目的とする万博で伝道するというが、そのような伝道とは何なの

か。機動隊という国家権力に守られた東京神学大学は神学的主体を放棄してしまったのではないか。とに

かく問題が一つ一つ教会の存立基盤そのものを問うものでありました。そいう中で教団の教師になるとは

何か、と問われたのですから、考えざるを得ません。状況は大分違いますが、それでも私の戒規免職処分

が教師委員会で決定されているのですから、その教団の教師になるとはどういうことなのか、という質問

にはそれぞれ答えるべきだったと思います。そういう意味で、最近教師になる人が余りにも自分の意見を

言わないことに違和感を持っています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。父との関係において、私には傲慢なところが

あるように思う。家族であるがゆえに、本当は丁寧な関係が求められながら、我儘が出てしまう。家族の

一人一人は最も身近な隣人であることを覚えたい。傲慢にならずに、自由になれたたと思う。もう一つは、

月曜日に農村伝道神学校の学生から電話があった。彼女は出席している教会で聖餐を受けるとき、2回続

けて気持ちが悪くなって、受けられなかったと言う。そして北村先生はどうなったかと聞いてきた。「元

気でやっている」と答えた。聖餐を受ける資格のある人など、誰もいない。恵として受けるべきではない

か。そうでないと、聖餐が押し付けに感じられるのではないか。家族の中で病人が出た場合、一緒に暮ら

していると、その人の様子をずっと見ることができるので、安心していられる。離れていると、頭の中に

重しをのせられているようで、心配してしまいます。それと同じように、私は、先生が元気にしているの

を見ているで、心配しないでいられるが、先生が元気かどうか分からない人は、聖餐の時に気持ち悪くな

ってしまう人もあるのではないかと思わされた。


          「死を贈り物とする」    5月16日

 どうすれば、自らの死を人々への贈り物とすることが出来るでしょうか。親戚や友人の死によって、生

活が損なわれ、破壊され、傷つくということがしばしばあります。これを避けるためにはどんなことでも

しなければなりません。死が近づいた時、身近な人々に、言葉であれ、書いたものであれ、どんなことを

言うかがとても大切です。私たちが身近な人々にありがとうを言い、自分のいたらなさを許してもらい、

彼らのいたらなさを許し、後悔の念ではなく私たち一人ひとりの人生に与えられた恵を思い起こしてさら

に生き続けてほしいという心からの願いを伝える時、私たちの死は真の贈り物となるはずです。

  

                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)