黙想と祈りの夕べ通信(556)復刻版を掲載します。2010年5月のものです。今日から土曜日遅
くまで遠出しますので、明日、明後日はこのブログはお休みします。
黙想と祈りの夕べ通信(556)[Ⅺ-34]2010・5・23発行)復刻版
今日午後戸塚公会堂で「いのちの山河~日本の青空II~」の上映会があり、連れ合いと行って来ました。
「日本の青空I」は憲法制定の話でしたが、今回は沢内村村長の奮闘記という映画で、憲法25条「すべての
国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会
福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」がテーマになっています。物語
そのものは、実話に基づいているようですが、1950年代から1965年くらいまでの、岩手県の冬は雪深い沢
内村での村長を中心とした貧困撲滅の取り組みです。乳児の死亡率が高かったのが、改革によって1年間
で一人も死亡者がなくなるようになったとか、65歳以上のお年寄りの医療費無料化を全国で初めて実現し
たとか、ある種の成功物語です。話そのものは、よくできた話ですが、二つほど感じることがありました。
一つは、改革へのプロセスです。民主的な話し合いにより住民の意識改革を創出し、みんなにやる気を起
こさせる、忍耐強い取り組みです。何かを民主的に変えようとするには、このプロセスがどうしても必要
ではないかと思わされました。もう一つは、私は1963年か1964年に、多分この映画の沢内村に近い奥中山
という所にひと夏行ったことがあります。奥中山は戦後キリスト者の開拓団が入って拓かれた所で、そこ
には伝道所があり、奥中山出身の同級生と二人で夏期伝道実習をしたのです。その時奥中山伝道所の信徒
の家を何軒か訪問しましたが、隙間風が入るであろう家で、冬の厳しい寒さの時には大変だろうと思わさ
れました。貧困の厳しさを痛感させられました。ですから、この映画を観ながら、そういう体験が甦りま
した。この映画のような貧困の問題は、これからの日本の社会にも形は違うでしょうが、既に起こってい
るのではないでしょうか。
上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。「日本の青空I」は、映画としてはナチスの宣
伝映画に等しいのではないか。憲法は素晴らしいというイデオロギーによって作られた、宣伝映画である。
この映画には違和感があり、日本にも黒澤明や小津安二郎のような監督がいるのに、残念だった。
また、別の方の発言がありました。バスで乗り合わせる障がい者の方との出会いについて、また、農村伝
道神学校の知人の神学生が聖餐をめぐる出席教会での体験について話されました。
もう一人の方の発言がありました。最近、力がぬけてしまう出来事があった。私は恵まれていて、教会で
は共通理解があって安心していられる気がしているが、私が関わっているNPOはキリスト教とは関係ない所
である。そこで私が辺野古の基地建設反対の国会前座り込みに行っていることも、沖縄に行くことも知って
いながら、普天間のことが話題になった時に、ある方が「沖縄をアメリカにあげちゃえばいいのよ」と言わ
れた。その瞬間「まさか」と返したがその言葉を聞いて、余りにも認識が違うので、私はドーンと気分が落
ち込んでしまった。しかし、よく考えて見ると、かつての自分なら同じ事を言ったのではないかとも思う。
人によっては、余りにも違い過ぎて、一緒になれないこともあるのかも知れない。最近号の雑誌『世界』を
読んで、天皇制を遺すために敗戦のとき沖縄はアメリカに渡されたことを改めて知らされた。「沖縄をアメ
リカにあげちゃえばいいのよ」ということも同じことではないか。それにしても、私の前でそういう言葉が
どうして出るのだろうかと思う。毎週会う人なので、この話は二度としないが、人間ってそういうものなか
のか、私自身も他の人に同じようなことをしているのではないかと思わされている。自立して一人でも考え
て歩んでいけるようにしたい。歴史を見据えないで、不用意な言葉を語ることのないようにしたいと思う。
とにかく、今は力が抜けてしまっています。
「イエスの自画像」 5月23日
イエスは言われました。「心の貧しい人々は、幸いである。悲しむ人々は、柔和な人々は、義に飢え渇
く人々は、憐れみ深い人々は、心の清い人々は、平和を実現する人々は、義のために迫害される人々は、
幸いである」(マタイ5:3-10)と。イエスはこれらの言葉でご自分を開き示しておられます。イエスは祝
福された方でした。祝福された人の顔は、貧しさ、柔和さ、悲しみ、義に対する飢えと渇き、憐れみ、心
の清さ、平和実現への望み、そして迫害のしるしを表しています。
「イエスのようになれ」、福音の全体にわたるメッセージはこれです。私たちにはイエスの自画像があ
ります。それをいつも目の前にしていると、イエスに従い、イエスのようになるとはどういうことがが、
じきに分かってくることでしょう。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)