なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(22)

   「離婚」マタイによる福音書5:31-32、2019年2月10日(日)船越教会礼拝説教


・2015年の統計によりますと、日本全国での婚姻数635,156に対して、離婚件数は226,215、離婚率は35.6

%で、婚姻しても3件に1件は離婚していることになっています。ですから、現在では離婚は、それほどめ

ずらしいことではなくなっています。


日本国憲法第24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを

基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と規定しています。「両性の合意に基づい

て成立し」とありますから、その両性の合意が崩れた時は、婚姻の基盤がなくなります。そうなれば、当

然二人は婚姻生活を続けられなくなり、離婚ということにならざるを得ません。子供のためにとか、親た

ちや親族のためにということで婚姻関係を維持していても、実質的には離婚に等しい関係という夫婦もあ

り得るでしょう。


・この憲法の条項では、「両性の合意」とありますから、この条項での婚姻は男女一組のペアを想定して

いると思われます。しかし、現在ではカップルの形も多様化しています。


・2月2日の東京新聞の「考える広場」という欄で、「カップルもいろいろ」という記事がありました。そ

の中で、同性婚の二人の弁護士の事例が紹介されていました。その記事の中のメモに「同性婚は日本では

法的に認められていないが、欧米では2001年にオランダで同性婚を認める法律が施行されて以来、各国に

広がっている」と記されていました。法的には認められていなくでも、同性婚カップルは、この記事に

紹介されている二人の弁護士だけでなく、日本にも他に相当数いるに違いありません。


・この記事には「卒婚カップル」の紹介もありました。メモには「卒婚は、子育てが一段落した夫婦が離

婚はしないで別居して、お互いの生活を尊重し合う関係などを指す」とありました。私はこの記事で「卒

婚」という言葉を初めて知りました。


・また、この記事には、同志社大学教授の岡野八代(やよ)さんが「性愛より『ケア関係』」ということ

を書いています。岡野さんは「カップル至上主義は日本の現実に合っていません。統計上、日本の世帯は

単身世帯が一番多い。多くは高齢者ですが、結婚しなかった独身者も増えています。そのときに性愛だけ

の結び付きが家族を形成するというモデルでいいのか。単身者が互いに支え合い、共同で暮らす形態も家

族と認め、法的にも担保すべきではないでしょうか。/私が人と人とのつながりで性愛関係以上に重要と

考えるのは、弱い存在を世話し、配慮する『ケア関係』です。人は生まれたとき、誰かケアしてくれる人

がいないと生きられません。年を重ね心身の自由を失ったときもそう。ケアする・される関係こそ政治は

配慮すべきです。実際、カナダでは2001年に政府の諮問機関である法律委員会が、成人同士のケア関係に

ついて婚姻を中心とする家族と同等なものとして法的に扱うよう求める報告書を出しました。実現されま

せんでしたが」。と言っているのです。


・このように離婚するカップルも多く、又カップルの形態そのものが多様化しているのが現代社会です。

今日のマタイによる福音書5章31-32節の離婚に関するイエスの言葉は、イエス時代のユダヤ社会では、

福音として人間解放の言葉だったかも知れませんが、現代社会に生きる私たちにとっては、余りにも現実

離れした言葉にしか聞こえないと思われる方もいるのではないでしょうか。皆さんはどうでしょうか。


・≪「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」と命じられている。≫と、31節には言われています。これは律

法の定めを意味します。「旧約の律法の中でこれと最もよく似ているのは申命記24:1です。(申命記24章

1節「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったと

きは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」)。多分マタイ教会の人たちはその個所を頭に置

いて言っているのでしょう。マタイに限ると、マタイの文の書き方では中心問題が「離縁状を書く」とう

点にあるみたいに思えます。「離縁する」というのは当然の前提で、ただ、その手続きとして離縁状を書

いてわたすのが法的に重要なのだ、と。・・・この時代の律法学者の間では、離縁状という正式の手続き

を取りさえすれば、妻を離縁するのは夫の権利に属する、という見解が一般的であったようです(田川、

566-567頁)。


・マタイ福音書の時代のユダヤ社会では、成人男性がその社会の正式な構成メンバーであって、女や子ど

もは正式な構成メンバーではありませんでした。成人男性中心の社会ですから、妻を離縁する夫の権利は

あっても、夫を離縁する妻の権利はなかったと思われます。女である妻は夫によって生活ができたので

あって、当時は、夫を離縁した妻は、夫を離縁して、すぐに別の夫を持てばともかく、自分だけで生活の

自立を獲得することは不可能だったでしょうから。


・では、離婚の理由とされる妻の振舞いには、どんな振る舞いがあったのでしょうか。32節を見ますと、

≪不法な結婚でもないのに…≫と言われていて、不法な結婚なら離縁状を渡して離縁が可能であるかのよ

うに書かれています。新共同訳の≪不法な結婚でもないのに≫は、「淫行の故ならで」(田川訳)、「ふ

しだらという場合は別として」(本田訳)とも訳されています。現代風に言い換えれば、妻が不倫したな

ら、離縁状を渡して離婚することができるということなのでしょう。


・果たしてイエスがその様なことを言ったのでしょうか。この部分はマタイが付加した部分とされてい

て、イエスはそもそも離縁すること自体に反対しているのです。そのことは、マルコ福音書10章1節以下

の、離婚をめぐるイエスとファリサイ人との問答の箇所を見れば明らかです。


ファリサイ派の人々が、イエスを試そうとして、イエスに質問します。≪夫が妻を離縁することは、律

法に適っているでしょうか≫。イエスは問い返して≪モーセはあなたたちに何と命じたか≫と言います。

すると彼は≪モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました≫と言います。それに対してイエス

こう言ったというのです。≪あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しか

し、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結

ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてく

ださったものを、人は離してはならない≫と。


・もしこの離婚に反対しているイエスの言葉を、律法主義的に受けとって、どんな場合にも離婚は認めら

れないというのであれば、結婚において、祝福ではなく、地獄の苦しみを味わう人もいることでしょう。

現実に結婚生活が破綻しているのに、離婚ができないというのであれば、仮面夫婦として結婚生活を続け

て行かざるを得ないのかも知れません。戦前の家族制度が強かった社会では、女性は、夫との結婚という

よりも、家との結婚という面が強かったでしょうから、夫婦としての結婚生活は破綻していても、形式的

な結婚を続けていかざるを得なかったというケースもあったに違いありません。


・けれども、イエスが「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々

ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と語った

とするならば、この言葉をどのように受け止めたらよいのでしょうか。


カトリックは結婚を秘跡サクラメント)として捉えていますから、結婚は神のみ業であり、絶対的な

もので、それこそ「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」のでしょう。ですから

離婚は法的にも認められていないのではないでしょうか。


・イエスのこの言葉をカトリック的に理解することには、私は同意できません。けれども、結婚した夫婦

には、「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体

である」という面があるのではないかと思うのです。勿論、夫婦といえども、人格としてはそれぞれ主体

性を持った別人格ですから、お互いに違いがあり、その違いが場合によってはぶつかり合いになることも

あります。しかし、そういうお互いが一つにされている。神に招かれて、私たちは一つにされているとい

う思いですね。連れ合いがそう思っているかどうかは分かりませんが、私にはそういう思いがあります。

ですから、「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、

一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という、イエスの言

葉も妙に納得するところがあるのです。


・私が結婚式で使って来ました日本基督教団の式文の中には、宣言という部分があります。その宣言の中

に「彼らはもはや、二人ではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならな

い」という言葉が入っています。この式文が問題になって、この言葉は削除して、違う言葉にすべきでは

ないかという意見がありました。そういう意見が出て、違った言葉にして結婚式をする人もありました

が、私はこのままの文章で結婚式をしてきました。そして結婚式の式辞の中には、必ずボンフェッファー

の言葉、「結婚は、お互いの好意がなければ成り立たないが、好意だけでも成り立たない。二人を結びつ

ける神の定めがなければ結婚は成り立たない」を入れるようにしてきました。


・勿論、私が結婚式をして夫婦となった二人の中には、離婚したケースもあります。「あなたはいま( 

  )と結婚することを神のみ旨と信じ、今から後、さいわいな時も、災いに会う時も、豊かな時も貧し

い時も、健やかな時も病む時も、たがいに愛し、敬い、仕えて、ともに生涯を送ることを約束しますか」

を問うて、それぞれから、「はい、そう信じて、約束します」という言葉を受けて、結婚式をするのです

が、残念ながら離婚するケースもあります。私の息子もそうです。私は残念に思いますが、離婚したから

と言って、とがめはしません。無理やり結婚生活を続けさせることはできませんし、してはいけないこと

だと思っています。


・イエスが離婚に反対しているのは、神の愛を与えられて、互いに愛し合うことにより成立する結婚の祝

福の豊かさを強調したからではないでしょうか。そのイエスの中に、離婚は認められないとか、異性愛

上主義者として、同性愛者を差別・否定する考えがあったのかどうかは分かりません。そのような考え方

は受け入れることはできませんし、イエスの中にそういう考え方もあったとするならば、そういうイエス

を、批判していかなければなりません。


・けれども、結婚している夫婦が与えられた子供を虐待し、死に至らせるという悲惨な事件が、後を絶た

ないこの時代と社会において、離婚に反対し、結婚の豊かさを語る、≪天地創造の初めから、神は人を男

と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人

はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならな

い≫というイエスの言葉、そしてボンフェッファーの言葉「結婚は、お互いの好意がなければ成り立たな

いが、好意だけでも成り立たない。二人を結びつける神の定めがなければ結婚は成り立たない」を、噛み

しめたいと思います。