なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(2)

  「インマヌエル」マタイによる福音書1:18-25、 2017年8月13日(日)船越教会礼拝説教

・今日のマタイの福音書は、イエスがだれから、どのようにお生まれになったのかを、伝えてくれます。

マタイがこれを書いたのは、イエスが誰なのかを示すために、どうしても、知らせておく必要があったか

らだと思われます。

・たとえば、私たちも、ある人を誰かに紹介するときに、その人がどういう人であるか、いろいろ説明し

て伝えようとします。紹介しようとする人がその人の両親をよく知っているならば、あのご夫妻がお父さ

ん、お母さんである・・・さん、と言うようにです。

・マタイも、イエスが誰なのかを示すために、母マリアや父ヨセフのことを、ここで書いているのです。

・ただ、その人自身を知るためには、このような間接的な紹介によってではなく、直接その人と交わるこ

とが大切です。私たちは福音書に記されている群衆や弟子たちのように、直接イエスと出会うことは出来

ませんが、福音書に記されているイエスの生涯や言葉や行いを通して、想像力を働かせて、イエスと対話

し、イエスだったらどうするのかを聞くことはできます。

・マタイは述べます。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ご

もっていることが明らかになった」(18節)と。このことは、生まれてくる子イエスの本当の父は、人間

ではなく神であること、イエスは、天の神の子どもであることを示しています。

・ところで、マリアのお腹に赤ちゃんがいることを知ったヨセフは、マリアと夫婦にならない方がいいの

ではないかと思いました。マリアから生まれてくる子は自分のこどもではないからです。

・当時婚約は正式の結婚を意味しました。ですから、もしヨセフが婚約を解消しますと、マリアは正式の

結婚によらない妊娠をしたということで、「婚約中のマリアが不義で妊娠したのであれば死罪に当たるこ

とになる」(新共同訳注解)のです。

・おそらくヨセフもそのことは知っていたと思われます。そのヨセフに《主の天使が夢に現れて》《ダビ

デの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである》(20

節)といいました。そこでヨセフはマリアと結婚しました。

・このことも、マタイにとっては、イエスがどういう人なのかをみんなが知る上で、とても大切なことで

した。それは、ヨセフの遠い先祖が、ダビデという王様だったということです。もうずいぶん前から預言

者が「やがて、ダビデ王の子孫の中から、救い主が生まれる」ということを、人々に知らせていました。

ヨセフがマリアを妻とすることによって、イエスダビデの家系[血筋]に入り、その子孫になったので

す。このことは「イエスこそ約束された救い主です」ということのひとつの証明になるからです。

・そしてもう一つ大切なことは、《マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい》(21節)

と、天使が生まれる子につけなさいといったイエスとう名前です。ふつう両親は、子どもに、こんな子に

なってほしいという願いをこめて、名前をつけますよね。天使を通してヨセフに神がその子につけるよう

に望まれたイエスという名前には、ヘブライ語で「神さまは救う」という意味があるのです。

・また、このマタイによる福音書のイエスの誕生物語では、ダビデの子孫であるヨセフと婚約していたマ

リアが聖霊によって受胎し、その母マリアから生まれたイエスの誕生が、イザヤの預言の実現として描か

れています。

・《見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる」。この名は、「神は

我々と共におられる」と言う意味である》(23節)。と言われています。

・マタイにとって最も大切なことは、イエスが「インマヌエル」(神は我々と共におられる)であるとい

うことなのです。

・マタイによる福音書の最後には、復活されたイエスが、生前弟子たちに指示しておいたガリラヤの山で

会う場面があります。そして、そこでイスカリオテのユダを除いた11人の弟子たちに向かって、《すべて

の民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたが

たに命じておいたことをすべて守るように教えなさい》(28:19)という派遣命令が与えられます。そして

その最後にこういう言葉があります。《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》(28:2

0)。ここも内容的にはインマヌエル(神は我々と共におられる)と言ってよいと思います。

紅葉坂教会時代にある青年が、大学受験に失敗し、浪人して再挑戦をしようとしていた時に、牧師だけ

ではなく、教会員やまだ洗礼を受けていない会友が自由に書くコラムが週報の中にあるのですが、その青

年がそのコラムにこのようなことを書いていました。

「3月に受験を終え、また一年後の受験に備えて新たにスタートすることになった私は、この春、人ひと

りの後ろに何人もの人が支えてくれて生きていることに気付かされました。時にはそれがものすごく重く

なることもあるけれど、こんなに恵まれて幸せなことはありません。家族をはじめ何故こんなに素敵な出

会いを神様は与えてくださったのでしょうか。・・・・時には何でこんなことが!?って思うこともあります

よね。神の意志がそこにあったとしても、それが理解できないことも。・・・自分の周りの沢山の恵みに感

謝していきたい・・・」

・ハロルド・S・クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか~現代のヨブ記~』という本があります。ク

シュナーには小頭症のお子さんがいました。その本の「第二版に寄せて」の中で、クシュナーはこうのよ

うに書いています。

・「この本を読んだ人たちからもっともよく問われる問いがあります。あなたは奇跡を信じていますか、

という質問です。もちろん私は奇跡を信じています。しかし、その奇跡は私たちが求め、思い描いている

ような形で得られるものとは限りません。むしろそれは、奇跡を見るために私たちが努力して見つけ出さ

ねば解らないものだと思います。絶望的な症状で死を目前にした子供の親が奇跡的な治癒を願って祈り、

そのこの伯父、祖父や祖母、そして教会や寺院の信者たちが共に祈りを捧げても、その子供が死んでし

まった時、私たちは奇跡は起こらなかったと考えてしまうのでしょうか。私たちが共に捧げた祈りは徒労

に帰し無駄に終わってしまったというのでしょうか。

 むしろ、それはひとつの奇跡なのではないでしょうか。たしかに、その子供が生きかえるという奇跡は

見られませんでした。私たちの世界には治すことのできない病気もあるものです。かすがいともいうべき

大切な子供を亡くし、この上ない苦しみに身も心も引き裂かれてしまいそうなこの夫婦が、離婚して引き

裂かれることなく夫婦として生きていることが奇跡なのではないでしょうか。あるいは、共に祈りを捧げ

てみても、何の罪もない子供が病気にかかり死んでしまうこの世の現実を目の当たりにした信者たちの信

仰が、死んでしまうことなく生き続けいていることが奇跡なのではないでしょうか。弱い人たちが強く生

きていくのを見たり、臆病な人たちが勇気を得たり、利己的で自己中心的な人が他人を思いやることがで

きるようになるのを見る時、私たちは奇跡が生じるのを目の当たりにしているのです」。

 「私たちが苦難にみまわれ絶望の淵にいる時、私たちを新しく生まれ変わらせる力を与えて下さるの

は、神の存在以外にはないように思います」。

・インマヌエル(神は我々と共におられる)。滝沢勝巳流に言えば、信仰者であろうが、誰であろうが、

その人がどのような人であろうが、すべての人の足下にこのインマヌエルの現実があるのです。たまたま

信仰者はそのことを知る機会を持つことが出来た人間に過ぎないだけです。イエスの救いは、(神は我々

と共におられる)インマヌエルの出来事なのだと、マタイは語っています。そして、インマヌエルの出来

事とは、人間を罪から救うことであると。人間の罪とは、私たちが的を外して、つまり正常な関係を失っ

て、自己中心的に生きることです。先ほど紅葉坂教会時代のある青年の言葉を紹介しました。彼女は受験

に失敗して、それまで家族を始め、人間関係が重荷に感じられていたが、そういう面を持ちながらも、人

との繋がりによって自分が支えられていることに気付かされて、「自分の周りの沢山の恵みに感謝してい

きたい」と思えるようになったというのです。

・インマヌエル「神われらと共におられる」ということは、神と人間を隔てている深い溝が埋められ、私

たちが神と共なる存在であることを再び可能とされるということにほかなりません。そのように神との関

係を回復した私たちは、他者である隣人との関係も、共に生きる方向にシフトをかえさせられ、「互いに

愛し合い」、奪い合う関係から与え合う関係に変えられていくのです。このようにして、インマヌエル

(神は我々と共におられる)という神のみ心が実現してゆく、イエスの出来事の只中に置かれた私たちが

取るべき態度は、このイエスの物語をこの現実社会の中で生きていくことではないでしょうか。

・昨日毎年この時期に行っています神奈川教区社会委員会主催の「平和集会」が紅葉坂教会でありまし

た。その平和集会で最後に2017年平和集会宣言案が朗読され、一部字句修正の上採択されました。その平

和集会宣言の前半部分を紹介させていただきたいと思います。

・「神奈川教区平和集会は、毎年、私たち一人一人が、置かれた場所で、平和をつくり出す働きを担うこ

とを誓い続けてきました。しかし、今、私たちはあらためて、これまでの働きが有効であったのか、顧み

る時を迎えていると考えます。戦後最悪の政権を生み出したその責任の一端は、私たちにもあるのではな

いかと。/今年、改正組織犯罪処罰法(共謀罪法)が公布され、この国が大きな転換点を迎えたことを憶

え、私たちの社会を公正で平和なものとして創り上げていくために、いよいよ心新たにしなければならな

いと決意します。/私たち一人一人がそれぞれの置かれた、その具体的な現場において、真摯に神の国

その義を希求し、自らと隣人の間に平和と互いに愛し合う共同性を回復することを実現しなければならな

いと」。

・この平和集会の講師は、他の人ではない、自分がどう変わるかだと明言されました。インマヌエル(神

われらと共におられる)という現実を信じて生きる者として、私たちは今ここでイエスと共に、そしてイ

エスが共に生きられた人々と共に、神の国と神の義を求めて生きていきたいと願います。戦後72年間、経

済によっては合法的に人殺しをしていないとは言えないこの日本という国にあって、ただ軍隊による人殺

しである戦争によって、他の国の人を一人の人も殺さず、また私たちも他国の軍隊によって一人の人も殺

されずに来たこの国が大きく変貌しようとしている、今ここで、どのように生きていくのかが問われてい

るのであります。ただ私たちの決意だけではなく、すでに私たち信じる者にも信じない者にもすべての人

の足下に、イエスを通して与えられた、インマヌエル(神われらと共におられる)の現実から命の泉が湧

き出ているのですから、その命を全身に受けて、生きていきたいと願います。