なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(326)

船越通信癸械横供。横娃隠掲8月13日    北村慈郎

・6日(日)は平和聖日で、礼拝には聖餐式がありました。礼拝後Hさんが準備して下さり、昼食会もあ

りました。食卓を共にしばらく懇談して散会しました。その後役員会がありました。この日の役員会はM

さんが欠席でしたので、役員3人と私とで行いました。当座の課題は10月21日(土)~22日(日)に予定

しています秋の修養会の内容です。前の役員会では「なぜわたしは教会に行くのか」というテーマで行っ

たらどうかということでしたが、そのことは私たちがキリスト者として日常をどう生きていくのかという

課題と密接不可分ですので、二人くらいの人に、信仰者として=ひとりに人間として自分の与えられた日

常生活の場の中でどのように生きていこうとしているのか、その課題への取り組み、その中で経験する自

分の弱さや不思議な導き、他者である隣人との交わり(肯定的、否定的)等々を発題してもらい、お互い

の現場を分かち合いながら、「なぜわたしたちは教会に行くのか」に迫ったらどうかと、私の方から提案

しました。役員会ではその方向でいくことにして、来月に具体的な人選をして修養会の準備をすることに

しました。

・役員会が終わって、私はこの日の夜、写真家のNさんを囲んでの食事会が船越教会でありましたので、

その食事会に出席しました。私の他にIさん、H・Tさん、Hさん、Tさんが出席し、H・TさんとHさんが用意

してくれた食事をいただきながら、Nさんの話にも耳を傾け、有意義な時をもつことができました。Hさん

はこの日の昼食会の準備もしてくれましたので、昼と夜と2回分の食事の準備をしてくれたことになりま

す。お二人には感謝いたします。午後10時半ごろに4人が帰りましたので、その後0時近くまでNさんと二

人で、いろいろな話をすることができました。Nさんの話の中で、私が一番感動したのは、「チェルノブ

イリや福島の写真を通して、自分は革命を起こそうとしているのだ」という主旨の発言でした。歴史的に

フランス革命にしてもロシア革命にしても、革命は民衆が動くことによって、はじめて実現できるもの

で、一部の運動家がどんなに頑張っても彼ら・彼女らだけでは革命は起こせないというのです。だから、

自分は写真を通して民衆を変えていきたいと思っているのだと。その話を聞いて、この人は壮大な夢を自

分の写真に託しているのだと思って、そのことに感動したのです。しかも、特別なスポンサーがいるわけ

ではなく、市民の協力と自力だけで、場合によっては、自分の自費でこの場所でと思ったところの会場を

借りて、例えば原発が近くにある地方都市のような場所で写真展をすることもあるそうです。お話しを聞

きながら、言葉は不適切かも知れませんが、何だか殴り込みをかけるような感じがしました。原発擁護の

人々がNさんの写真を見て、原発の問題性に気づき、反原発になるかもしれない、そのことに賭けるとい

うか、そんな感じがして、この人はすごいことを考えていると思った次第です。振り返って、自分自身の

ことを考えて、福音宣教にそこまでの思いをもって取り組んでいるだろうかと反省させられました。 

・7日(月)の朝、予定ではこの日が写真展の最終日で、この日もNさんは船越教会に泊まることになっ

ていましたが、最終日で打ち上げがあり、夜遅くなることもあり、急遽写真展が行われた横須賀市文化会

館市民ギャラリーのある横須賀中央近辺の宿を探すということで、Nさんとは教会の玄関で挨拶を交わし

て別れました。3日(木)の夜から6日(日)の夜までの4日間の宿泊でした。私は7日(月)午後3時過ぎ

に船越教会を出て、鶴巻に帰りました。

・8日(火)夕方都城妻ヶ丘教会の信徒の方からではないかと思いますが、電話があり、友人のK・T君が

亡くなったという連絡を受けました。電話のそばにK・T君の連れ合いのEさんもいるようでしたの、Eさん

に代わってもらいました。一言二言言葉を交わしましたが、こちらの言葉が聞き取れないようでしたの

で、教会の信徒の方から前夜式と葬儀式の日時を伺いました。私はK・T君の葬儀に行くことにしました。

以下はK・T君の葬儀から帰ってから皆さんにメールで報告した内容です。

・皆様へ/K・T君の葬儀に行ってきました。K・T君は昨年の10月から都城にある国立病院に入院して、10

か月間ずっと病院生活をしていたそうです。8月7日午後6時37分に息を引き取りました。15年近い癌との

闘いで10回ほど手術をして、最後は口から食べて胃が消化して排出するという体の基本的な機能も不全

になり、天上の人になりました。/さて、K・T君の経歴が告別式の式次第の裏に印刷されていましたが、

その中には、1978.4日本キリスト教団船越教会(神奈川県)へ赴任、この間、「神奈川教区において社会

委員会、基地自衛隊問題小委員会、在日韓国朝鮮人連帯委員会、韓国被爆者援護法制定運動、指紋押印拒

否闘争などの活動に奉仕」と記されていました。司式をした都城妻ケ丘教会牧師は、この故人略歴はK・T

君が書いたものだとおっしゃっていましたから、「この間云々」は、他の年代は「1978.4船越教会赴任」

と同じように一行だけでしたので、船越教会時代がK・T君にとっては最も活躍した時期だったのではない

でしょうか。/さて、都城妻ケ丘教会の牧師をはじめ信徒の方々が大変よくしてくださいました。遺族は

K・T君の弟と妹の二人だけで、Eさんは前夜式も告別式も熱が出て自宅で伏せていたので出席できません

でした。前夜式には、牧師関係で出席していたのは私を含めて3,4名で、全体の出席者は35名くらいで

しょうか。K・T君の妹さんが式後遺族を代表してEさんからの挨拶文を朗読されましたが、その時妹さん

は付け加えて、K・T君の葬儀には数名の人しか来てくれないのではと思っていたが、こんなにも沢山の

方々が来てくださってと言ってました。告別式には牧師は10名近く出席していたと思います。全体で40名

位でしょうか。私は火葬場まで行き、骨拾いをしてから、行は飛行機が取れなくて、新幹線で8時間30分

かけて行きましたが、帰りは宮崎空港から1時間40分ほどで羽田に着きました。/Eさんのことが心配で

す。火葬場から私の荷物を預けていたホテルまで送って下さった教会の信徒の方には、今後のEさんのこ

とで何かできることがあれば、連絡くださいと私の携帯を知らせておきました。/K・T君の葬儀の、とり

あえずの報告とさせていただきます。Eさんのことを覚えてお祈りください。