なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

平和聖日説教(Ⅱコリ5:14~6:2)

    「今や、恵みの時」コリントへの信徒の手紙二、5:14-6:2、

                    平和聖日 2017年8月6日船越教会礼拝説教

・今日は平和聖日ですので、平和聖日の聖書日課から聖書箇所を選びました。コリントの信徒への手紙二、

5章14節から6章2節までです。先ほど司会者に読んでいただいた箇所です。

・さて、日本基督教団が8月第一日曜日を平和聖日にしたのは、ヒロシマのある西中国教区からの提案を受け

て、1962年の常議員会決議によってです。この平和聖日が西中国教区によって提案されたということは、ノー 

モア ヒロシマを意識して、二度と同じ過ちを繰り返してはならないという思いをもってではないかと思い

ます。ヒロシマは長崎と共に原子爆弾が投下されたところです。その惨状は地獄に譬えられるほど、言語に

絶するものでした。原爆ではありませんが、同じ原子力である原発事故のチェルノブイリと福島の状況も、

放射能の拡散という点では同じものがあるのではないでしょうか。

・今船越教会に泊まっています写真家中筋純さんの「流転福島・チェルノブイリ」という写真展が、8月3日

から7日まで横須賀市文化会館市民ギャラリーで開催されています。私も観に行きました。まだ観ておられな

い方で、行ける方はぜひご覧になっていただきたいと思います。

・さて私は原発事故が起きたチェルノブイリにも福島にも一度も行ったことはありません。ですから原発

故後の現地がどうなっているか、時々テレビで放映される福島の映像は断片的には見てはいますが、実際に

自分の目で見ていませんので、ほとんど分かりませんでした。中筋さんの写真展では、チェルノブイリと福

島の同じような風景が並べられて展示されていましたので、想像力を膨らませることができました。この写

真展のチラシに、「景色はものがたる。静かにそして饒舌に」とありますが、本当にその通りでした。原発

事故後のそれぞれの風景という事実の重さ、厳しさ、そのすごさを、それぞれの写真によって突きつけられ

る思いがしました。

チェルノブイリの幼稚園か保育園の部屋に時間の経過によって劣化したお人形がころがっている写真があ

りました。事故が起こる前には、この教室には子どもたちが集ってきていたに違いありません。劣化したお

人形も子供たちの遊び友達だったことでしょう。しかし、原発事故のためにこの教室もお人形もそのまま放

置されて、時間の経過とともに廃墟となって行かざるを得ないのです。

・また、今の季節、高校野球の甲子園大会の時期です。この写真は(中筋さんの写真集当該箇所を皆に見せ

る)双葉町にある福島県立双葉高校野球部がバッティング練習に使っていたボールです。この写真の添え書

きには、「3・11当日は伝統の「海練(双葉海水浴場でするトレーニング)を変更してバッティング練習の最

中だったと聞く。青春の一球入魂は無惨な姿をさらす」と記されています。原発事故がなければ、今も高校

生がこの場所で野球の練習を続けているでしょうし、ホールがこのように放置されて、無惨な姿をさらすこ

ともなかったはずです。

原発事故後のこの写真の現実はこの世界の現在を象徴的に表しているのではないか。私は写真を観ながら

そのように思わされました。全てが死に呑み込まれていく、廃墟に向かって前進するこの世界の現実、それ

が今、現在という私たちの時間なのではないか。

・中筋さんの写真展を観て、そんな思いに駆られていた私は、その時すでに今日の説教箇所の聖書、コリント

の信徒への手紙二、5章14節以下を読んでいましたので、6章2節でパウロが語っている、《今や、恵みの時、

今こそ、救いの日》という言葉が、この悲惨な現実を露わにしている現在に対して、どうしてそのように言

えるのだろうかと、改めて考えさせられました。パウロは確かに、ここで《今や、恵みの時、今こそ、救い

の日》だと語っているのです。ここでパウロが語っている、《今や》は、パウロの時代の《今や》であって、

現在の《今や》ではないのでしょうか。

・そうではないと思われます。パウロが語っている《今や》は、この21世紀の前半を生きる私たちにとって

の《今や》でもあります。《今や、恵みの時、今こそ、救いの日》。この言葉は私たちに向けて語られてい

る言葉でもあります。チェルノブイリ・福島以後を生きる私たちにとって、《今や、恵みの時、今こそ、救

いの日》とは、どのようなことなのでしょうか。

チェルノブイリや福島の原発事故を引き起こしたのは私達人間です。特に福島の場合、背後にはアメリ

の意志があったのかも知れませんが、日本政府と電力会社が主導して、「原発は明るい未来をつくる」とい

イデオロギーによって、科学技術的にも、核廃棄物の処理をはじめ、まだ未解決な問題が残っている段階

にも拘わらず、また、ミサイル攻撃の対象になった時にどうなるかという問題もあるにも拘わらず、強引に

推し進められてきたのです。その電気を私たちも使って、快適な生活をしてきたのですから、私たちも加担

者にさせられてきたわけです。この原発をこの狭い国土の日本に54基も作って来たのは、資本と国家の論理

であり、それを許した、結局「自分自身のために」生きて来た自己中心的な私たちの罪です。

・それにも拘わらず、《今や、恵みの時、今こそ、救いの日》なのは、何故なのでしょうか。パウロがこの

コリントの信徒への手紙二のこの箇所で語っているのは、「自分自身のために」生きている私たち自身の根

本的な変革が、すでにイエスの十字架と復活の出来事によって起こっていて、それが私たちに新しい生をも

たらしているという、イエス・キリストにある信仰の事実なのです。

・5章14節を原文に忠実に訳しますと、《一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人

も死んだことになると考える時に、キリストの愛がわたしたちを駆り立てる》となります。イエス・キリスト

の十字架によって、生まれながらの、古い自分のために生きていた自分が、一度イエスと共に死に、イエス

キリストの復活によって、キリストの愛がわたしたちを駆り立てて、イエスと共に神に生きる者となったと

いうのです。

・5章17節に、《キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者です》と語られています。それに続

いて、パウロは《古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、

キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けに

なりました》(17b、18節)と語っています。

・この考え方はパウロのイエスの十字架理解を示していますが、いわゆるイエスの十字架の贖罪の教えと言

ってよいと思われます。21節には《罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。

わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです》と言われていますが、これもイエスの十字架

の贖罪の教えと言ってよいでしょう。ただパウロにとって、イエスの十字架の贖罪によって罪赦された私たち

は、キリストと結ばれて新しく創造された者なのです。新しく創造された者は、この第2コリントの文脈では、

その神からいただいた恵みを無駄にしてはいけないのです(6:1)。

・山上の説教の中でイエスは、《空の鳥をよく見なさい》《野の花がどのように育つのか、注意して見なさ

い》と言われました(マタイ6:25以下)。この有名なイエスの教えの中で、イエスは《「何を食べようか」

「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな》と語っておられます。しかし、産業革命以降の

近代社会において、私たちは、何を食べ、何を飲み、何を着るかという豊かさを求めて驀進してきたのでは

ないでしょうか。科学技術の進歩と人間中心主義の結果がチェルノブイリであり福島ではないでようか。イ

エスは語っておられます。《それはみな、異邦人(=生まれながらの生来の自己中心的な人間、古き人)が

切に求めているものだ。《あなたがた(キリストに結ばれて、新しく創造された者)の天の父は、これらの

ものがみなあなたがたには必要なことはご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そう

すれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自

らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である》(マタイ6:32,33)と。

・私はこの4月から寿地区活動委員会の委員長にまたなりました。センターニュースに挨拶を書くようにと言わ

れ以下のような文章を書きました。最新の寿地区センターニュースに掲載されていますので、すでにお読みに

なられた方もあるかと思いますが、以下に紹介させていただきます。

・【私の所属する横須賀の船越教会には礼拝式文(2003年8月3日改訂版)があります。この礼拝式文は聖餐式

時に使います。この式文には、パンとぶどう酒(実際にはぶどう汁を使っています)の配餐の前に、聖餐式

聖書的意味を確認するための司会(司式者)と一同(会衆)による交読文があります。その交読文の一節にこ

のような応答があります。 

・司会:「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子達に渡

して配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。」(マルコ6:41)/主イエスは弟子

達に「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(マルコ6:37)と言われました。パンとぶどう酒はまず飢え

渇いている人々にこそ与えられるべきものです。そのために私達は貧困と飢えを無くすべく、政治的、社会的

改革に目を向けるように主イエスから問われ、依頼されました。人間の生命を維持するために日々必要とする

食物がある人々には欠けている不平等な社会はイエス神の国にふさわしくありません。 

・一同:主イエスの招きにあずかることによって私達は「万人の命が尊ばれる社会、生命(せいめい)の維持

を保障される社会」の形成に向かっていきたいと願うものです。どうか主よ、この私達の祈りと願いに祝福と

導きを与えてください。 

・私は年に数回この船越教会の聖餐式に与かっている者として、神奈川教区が設置している寿地区センターの

日雇い労働者や野宿者支援の活動に参加し、この活動を支えていきたいと思っています。また、神の国には軍

隊は必要ないと思っていますので、世界の軍事費総額1兆6866億米ドル(2016年度、ストックホルム国際平和研

究所世界レポートによる)が世界の貧困をなくし、地雷や核兵器化学兵器の撤去のために使われることを希

望する者として、安倍政権の戦争のできる国造りには反対で、この十数年は沖縄辺野古の新基地建設反対の運

動に参加しています。 私にとっては日雇い労働者・野宿者支援と戦争のない平和な社会造りとは、コインの

裏表のように一体となっているのです。本年4月から、また寿地区活動委員会の委員長をお引き受けしました。

貧困からの解放と戦争のない平和な社会の建設に皆さんと一緒に励んでいきたいと願います】。

・キリストと結ばれ、新しく創造された者として、この破局的な時代ではありますが、私たちは先ず何よりも

神の国と神の義を求めて生きていきたい」と願います。