なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

辺見庸・目取真俊『沖縄と国家』を読んで

   辺見庸目取真俊 『沖縄と国家』 角川新書、2017年8月10日発行、(8月22日読了)

 上記の本を、連れ合いがアマゾンで注文し読んでいた。どうしても早めにこの本を読んでおきたいと思い、

連れ合いからかりて、数時間で一気に読了した。二人の発言の中で、私が心に留めた箇所を以下抜き出

してみたい。沖縄の高江・辺野古新基地建設反対の運動に長年自分なりの関わりをしている者として、この

二人の発言が私の中で響いたからである。


辺見:

目取真さんのものを読んで感じるのは、沖縄問題といったときに、観念や思想、論理の問題としてだけでは

なく、沖縄を「人間身体」の問題として考えていることです。たとえば県外移設引き受け論みたいなものに

は、ほんとの身体性というものがないなあ、と思うのですね。もうひとつは、のしかかられたり踏んづけら

れたら、足を払うしかないじゃないか。おまえどけと言って、どかなかったら刺すしかないじゃないかいう

趣旨のことを何度か僕は読んでいて、僕はまったくの、ホンドの少数派の人間だから、逆に無責任な言い

方をして申し訳ないんですが、痛快なんですね。そうだよ、そうなんだと。この問題は、殺らないと殺られ

る、というぐらいに思うんですよね(43-44頁)。

目取真:

全面返還であろうが、国外移設であろうが、県外移設であろうが。何を言っても受け入れる気がない人たち

を相手に、県外移設がどうのこうの言ってもしょうがないんじゃないですか(45頁)。



沖縄は日本とアメリカの軍事植民地でしかない(51頁)。

辺見:

例えば県外移設の問題なんかのですね、根本的な問題はどこにあるのか。本質が棚上げというか捨象されて

いる感じをどうしても受ける。本質すなわち日米安保という問題はどうなんだと。沖縄の基地を本土の何県

に移したらいいとかわるいとか、引き受けたらどうかとか‥‥そういう議論にいったいどんな意味があるの

か、よくわからない。言っている人たちの善意は疑わないけれども、首をかしげるときがあるんですね

(61頁)。

目取真:

日米安保に触れなければ米軍基地に反対する必要もなく、護憲だけを唱えて楽な平和運動ができる。それ

で自分たちも平和運動に参加して、社会的な役割をはたしている気持ちになれますからね。でもそれは沖縄

が置かれている状況とは全く乖離している。このズレっていうのはずっと以前から感じています。日米安保

抜きの憲法9条擁護など欺瞞でしかないと思いますけれどね(62頁)。

辺見:

そもそも、沖縄の基地を県外に持って行くとかいうアイディアは、根底で安保を問うていないと僕もそう思

うんですよね(64頁)。

目取真:

…髙橋さんに言いましたけど、そんなことしている暇があったら、あなた自腹を切って辺野古に来て、集会を

やっているときにトイレ送迎の運転手をしたり、裏方の仕事を手伝った方がいいよ。その方がずっと役に立

ちますから。沖縄から「米軍基地を引き取れ」という声があって、それを主体的に受け止めて、「本土」から

応答して、自分の後ろめたさは解消されるかもしれないけれど、実際上は効果がないわけです。むしろ、日本

政府は「引き取り論」が広がることを喜びますよ。辺野古には来ないで「引き取り」運動をする人が増えれ

ば日本政府には都合がいい。しかし、辺野古のゲート前で毎日苦労している人からすれば、辺野古に来て座

り込む一員になってもらった方が、はるかに助かるわけですよ。…(65-66頁)。

辺見:

このかんずっと、目取真さんのものを読んできてるので、なんていうか、まったく違和感がないっていうか。

当事者なんですよ。肉体的にも内面的にも。自分の当事者性っていうことに目取真さんは忠実な人だと思う。

沖縄に行ったって、当事者性のない人はいると思うんだ、それはホンドでもそうだけど(73頁)。


目取真:

…であるなら、基地をどこかに「移設」する、「引き取る」という議論ではなく、基地そのものを無くしてい

く必要がある。宮古八重山、与那国の自衛隊強化を含めて、沖縄が抱えている基地問題辺野古にとどまら

ない。それに対応していかないと一点共闘の「オール沖縄」は限界を露呈してしまう(84頁)。

…これだけ巨大な弾圧態勢を政府は敷いて、無関心な日本人の大多数がその弾圧態勢を支えているんですよ。

ゲート前でも。みんな体張って阻止しようという気持ちで、勇気をもって行動しているわけですから(85頁)。

辺見:

「あなた方、まだ何か期待されていると思っているの」って言い方はよくわかるな(91頁)。

目取真:

ヤマトゥに住む人たちが考えなければいけないのは、沖縄すら説得しきれないで、ましてやアジアの人たちに、

日本がどれだけ共感を得られるかということです。アジアの多くの國にとって共通の歴史経験というのは、日

本に侵略されたことです。…慰安婦問題でも、強制はなかったとか、自分たちが犠牲にした相手の痛みを理解

しようともしないで、それで受け入れてもらえると思っているのか。もう日本人の多くは内にこもってしまっ

て、外を見もしない、見よという気持ちもないのかな、と思いますよ(122頁)


 さて、この本の中で辺見庸は、本気度の希薄なホンドの「なんちゃって」という姿勢を批判しているところ

がある。私はその部分を読んで、この私のブログ「なんちゃって牧師の日記」というタイトルを変えようかと

思った。だが、辺見庸の「なんちゃって」批判を受け止めた上で、このブログのタイトルはそのままにし、

私としては自らの当事者性を大切に、可能な限り事柄と本気で関わっていきたいと思っている。