なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(23)

   「然りと否」、マタイ5:33-37、 2019年2月17日〈日〉船越教会礼拝説教


・先ほど司会者に読んでいただきました今日のマタイによる福音書の箇所には、イエスの語られた言葉と

して、「一切誓いを立ててはならない」と言われていました。


・「一切誓いを立ててはならない」。この言葉を、もしその通りに受け止めるならば、私たちの社会生活

は成り立つでしょうか? 私たちの社会生活は、ある意味で誓いによって成り立っているからです。新共

同訳新約聖書マタイの注解書にこのように書かれています。「誓いとは、社会生活の重要な場面におい

て、自分の言葉が真実であることを約束し、相手側がその言葉に信頼をもち得るようにするための一種の

儀式である。これによって言葉は通常の場面以上の権威と拘束力を持ち、人々は相互に信頼を保って社会

生活を円滑に営むことができるのである。」と。


・最近詐欺事件が目立っています。昨年8月に明らかになりました、地面師によって積水ハウスが63億円

をだまし取られた詐欺事件は、積水ハウスほどの大きな建築会社でも詐欺事件に引っかかるほど、詐欺師

が巧妙になっているのかと、驚かされました。また、最近、実体のない事業の投資を募り、投資会社会長

を名乗る男が自らを「キング」と称し、各地でライブを行うなどして、全国の1万3000人から約46

0億円を集めていたとみられる詐欺事件が起こっています。このような投資詐欺事件の背景には、銀行に

いくら預金していても、利子が低く預けているお金が増えないので、高率な投資でお金を増やしたいとい

う人々の欲張りな思いがあります。詐欺師はそこに付け込んでうまい儲け話を持ち掛けるわけです。です

から、この種の詐欺事件は形を変えて次から次に起こっています。


・このような詐欺事件にも、騙す人と騙される人との間には、何らかの契約関係結ばれるわけです。契約

関係は誓いの一種と言えます。誓いを取り交わし、お互いが信頼し合うことによって契約関係は成立しま

す。そもそもその契約関係が偽りなのですから、このような詐欺事件は、誓いによって成り立つ正常な社

会生活を根底から崩壊させてしまいます。


・先日2・11の県民集会に参加し、『永続敗戦論』の著者であります白井聡(さとし)さんの「天皇

替わりと改憲問題」という講演を聞いてきました。白井さんは、明治から敗戦までの戦前の時代と戦後の

時代が並行関係にあると言っていました。機¬声4釗拭診埓錙占領期~1970年前後、供大正期//19

70年前後~1990年前後、昭和前期//掘1990年前後~現在 というようにです。そして気蓮嵳?曚了

代」、兇蓮峙?修了?紂廖↓靴蓮嵒垈椎柔の時代」と規定しています。これを天皇制との関係で、国の

在り方としての「国体」という観点からすると、気蓮峭饌里侶狙期」、兇蓮峭饌里料蠡佚安定期、

は、「国体の崩壊期」と規定します。現在の日本の状況は靴任垢ら、戦前に当てはめますと「昭和前

期」、1945年の敗戦の時期を現在に当てはめますと2022年になるというのです。としますと、今年は2019

年ですから、戦前で言うと、1942年、昭和17年ということになります。後3年で敗戦という時期です。


・「誓によって人々が相互に信頼を保って社会生活を円滑に営むことができる」ということからします

と、現在の日本の状況は、数値を操作し変えてまでアベノミクス経済成長を偽装する政権をはじめ、至る

所で偽りの誓いが取り交わされていて、円滑な社会生活が崩壊しつつあると言えるのではないでしょう

か。


・白井さんの講演で、2019年の今の日本の状況が太平洋戦争下の敗戦へと急傾斜していく1942年、昭和17

年と並行関係にあるとお聞きして、妙に納得してしまいました。今の日本は破滅の一歩手前の状況だとい

うことです。後数年で敗戦と同じ状況を迎えるというのです。


・先日の説教で私は結婚式の誓約のお話をしました。その時に、結婚式では誓約があり、神と会衆である

証人のまえで、二人に誓約をしてもらいますが、その時の二人への問いかけの言葉を紹介しました。

「誰々さん、あなたはいま誰々さんと結婚することを神のみ旨と信じ、今から後、さいわいな時も災いに

会う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、たがいに愛し、敬い、仕えて、ともに生涯を

送ることを約束しますか」と。この問いかけを注意深く見ますと、「誰々さん、あなたはいま誰々さんと

結婚することを神のみ旨と信じ、・・・・・ともに生涯を送ることを約束しますか」となっています。約束の

前に二人の結婚を神のみ旨と信じるかどうかが問われているのです。


・この前の説教の時にもお話しましたが、私は、結婚式を司式する時には、結婚する二人にボンフェッ

ファーの言葉を餞に言うことにしています。ボンフェッファーは、結婚においてお互いが好意をもって愛

し合うということがなければ、結婚は成り立たないが、それだけでも成り立たない。二人を結びつける神

の定めがなければならないと言うのです。


・神の定めとは二人を結びつける神の決定です。二人の決心以前に、決心ではなしに、ちゃんと決定され

ている、そういう神の決定が二人の結婚生活を生き生きと充実して生きていく根拠になっていくというの

です。


・さて、「一切誓いを立ててはならない」といわれたイエスは、「あなたがたは、『然り、然り』、

『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」とおっしゃられたというので

す。


・天や地、エルサレムや頭にかけて誓って約束するということは、その人が自分を越える神の印のような

ものを引き合いに出して自分で決めた決心の確かさを言っているのです。誓約するとか決心するのは、そ

の人自身です。この世の中での私たちの生活は、そういう人間の誓約や決心によって成り立っているかに

見えます。一切誓いを立てないで生活することはとてもできないと考えるのが普通でしょう。


・もし「一切誓いを立ててはならない」というイエスの言葉に忠実に生きようとするなら、この世の中に

生きていくことは出来ない、ということになってしまうと考えてしまうかもしれません。


・でも、そういうことをイエスは、「一切誓いを立ててはならない」ということで言おうとしているので

はありません。


・これは滝沢克己さんがはっきり言っていることですが、


・「人間が本当に生きる基礎、生きるということは自然のものと関わり、ほかの人々と関わるということ

でもありますが、それができるということは、何かその人間の誓いによるかのように、決心によるかのよ

うに、思ったら大間違いだということです。

 だから、こっちが誓うとか、決心するとかいうことが、生きていく基礎には絶対になりえないというこ

とです。

 そうではない。決心以前、決心でなしに、ちゃんと決定されていること、決まっていることです。その

神の決定が、人間が本当に人間として充実して生きていく、生き生きとして生きていく唯一の、そして充

分な条件だということです。そのことを、ここで言うわけです。

・・・・

 だから無条件に決定されている、来ている祝福に着眼してみると、イエスがここで言っていることは、

どうしてもこういう言葉としてそこからあふれて来るほかないような、正確な言葉です。

 本当にそこでは、「しかり」と言うほかない。「しかり、そうです」というほか、こっちが「考えま

しょう」などと言う余地は全然ないわけなのです。これはちゃんと決まっているので、ただ「しかり」と

しか言いようがないことです」。


滝沢克己さんは、このように言っています。そして、


・「そこが分かってはじめて、人間の間の約束事とか、約束とかいうものが、どういう根拠で、どういう

範囲で意味を持ってくるものか、法律をはじめ、そういうことが初めて分かってくるのです。その一番元

のことを抜かしたら、あとはメチャクチャです」。


・「しかり、しかり」「否、否」とは、私たち一人一人の足下にある神の現実に「しかり、そうです」と

答えるしかない。そういう意味で私たち人間は徹底的に受身なのです。イエスが徹底的に神の御心と御業

に対して受身であったように。


・「神の独り子」イエスとは、イエスの全生涯が神の御心にのみ結ばれていることを示しているのです。

他のあらゆる結びつきは、例えば家族の絆さえ、イエスにとっては神の御心との絶対的な結びつきによっ

て制約のもとに立っています。弟子たちがイエスの家族がイエスのところに来た時に、「あなたの家族が

来ています」とイエスに言ったときに、イエスは、自分の教えを聞いていた群集の一人一人を指差して、

ここにいる一人一人が私の母、兄弟姉妹であるとおっしゃいました。このイエスの振る舞いは、神の独り

子として、神の御心にのみ結ばれているイエスを示す以外の何物でもありません。


・私たちは、神のみ名を呼び求め、イエスに従うことによって、イエスに結び付けられている者です。イ

エスに認められ、イエスの前で、裸で生きているのです。そのような私たちは、イエスの招きにおいて、

神のみ心をないがしろに生きてきた自分が罪の中にあることをイエスから明らかに示され、自分を知るに

いたりました。その自分の罪を告白して、罪赦されて私たちはイエスのものとされたのです。


・そこから、キリスト者である私たちは、神の現実に「しかり、しかり」、「否、否」という生を生き始

めたのではないでしょうか。


・「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである」とあります。この言葉を聞いて、い

や、髪の毛は茶色にも、紫にも染めることはできると言う人がいるかも知れません。この言葉はそういう

ことを言っているのではありません。「人間が、全然主体ではない、ただ受けていくほかない、そういう

ところを踏まえないで、人間が考えるとか決心するとかいうことはできないし、それがなかったら意味を

失ってしまうということ(なの)です」(滝沢)。


・「平和を造り出す者は幸いだ」というイエスの言葉も、誓いから始まるわけではありません。自分は平

和を造り出す者になることを誓う。そう決心し、誓ったから、平和を造り出すことができるわけではあり

ません。平和は既に神さまによって、イエスさまによって私たちの所にもたらされているのです。私たち

は「しかり、そうです」と言うのです。ですから、平和を阻害するこの世の力に抗えるのです。真の平和

から出発していくからです。ですから、必ずやってやるとか、出来なかったら万事休すだという必要があ

りません。


・必ず平和は実現成就するからです。神の真実は必ず勝利するからです。白井聡さんの分析が正しいとす

るなら、後数年で敗戦という破局に向かうこの時代と社会の中で、私たちは「しかりと否」を曖昧にし

て、この時代と社会の荒波に呑み込まれないようにしたいと思います。「しかり」を「しかり」とし、

「否」を「否」とし、イエスを信じ、イエスに従って生きる信仰者の一人として、その与えられた生を貫

いていきたいと願います。


・主が私たちを支えて下さり、私たちをイエスの道に導いてくださいますように!