「絆」ガラテヤの信徒への手紙3:23-29、 2016年8月14日(日)船越教会礼拝説教
・8月9日は長崎に原子爆弾が投下されて日です。今年も長崎では平和集会が開かれ、被爆者代表の井原東
洋一さんが「平和への誓い」を語られました。その中にこのような一節がありました。(今日の週報の船越
通信にも「平和の誓い」を抜粋しておきましたので、ご覧ください)。
・<・・・/しかし、私たちは絶対悪の核兵器による被害を訴える時にも、日中戦争やアジア太平洋戦争な
どで日本が引き起こした過去の加害の歴史を忘れてはいません。/わが国は、過去を深く反省し、世界平和
の規範たる「日本国憲法」を作りこれを守ってきました。今後さらに「非核三原則を法制化」し、近隣諸国
との友好交流を発展させ、「北東アジアの非核兵器地帯」を創設することにより、平和への未来が開けるで
しょう。/国会および政府に対しては、日本国憲法に反する「安全保障関連法制」を廃止し、アメリカの
「核の傘」に頼らず、アメリカとロシアおよびその他の核保有国に「核兵器の先制不使用宣言」を働きかけ
るなど、核兵器禁止のために名誉ある地位を確立されることを願っております。/・・・私たち被爆者は、
「武力で平和は守られない」と確信し、核兵器の最後の一発が廃棄されるまで、核物質の生産、加工、実験、
不測の事故、廃棄物処理などで生ずる全世界の核被害者や、広島、長崎、福島、沖縄の皆さんと強く連帯し
ます。長崎で育つ若い人々とともに「人間による安全保障」の思想を継承し、「核も戦争もない平和な地球
を子供たちへ!」という歴史的使命の達成に向かって、決して諦めず前進することを誓います。/地球市民
とともに核兵器廃絶の実現を!!/ナガサキ マスト ビー ザ ラスト/・・・>。(下線:北村)
・この井原さんの「平和の誓い」に、私たちも参与していきたいと思います。
・ さて、この井原さんの「平和の誓い」の最後に、「地球市民」という言葉が出てきます。<地球市
民とともに核兵器廃絶の実現を!!>と言われているのです。ここには、私たちこの地球上で生活している
一人ひとりが、それぞれの民族や国家に所属していながら、そのような民族や国家の枠組みを越えて、すべ
ての人が住んでいる地球という共有地の住民、市民ではないかという思想があります。この地球市民という
思想はすばらしい考え方ですが、現実の世界は国民国家によって分断していて、地球上のいたるところで国
家間、民族間による対立紛争が起きていて、地球市民としてすべての人が一つになることの困難さに直面さ
せられているのであります。
・みなさんは自らが「地球市民」の一人であるという自覚をどの程度お持ちでしょうか。井原さんは、その
人が自らを地球市民として自覚していようがいまいが、この地球上に住んでいるすべての人は「地球市民」
であるという風に考えているのではないかと思います。ですから、「地球市民とともに核兵器廃絶の実現を
!!」は、ほとんど「すべての人々とともに核兵器廃絶の実現を!!」と言い換えられるように思われます。
・ ところで、聖書は私たち一人一人をどんな人間として見ているのでしょうか。特に先ほど司会者に
読んでいただいたガラテヤの信徒への手紙3章23節から29節までの箇所で、このガラテヤの信徒への手紙の
著者パウロは、私たち一人一人をどのような人間として見ているのでしょうか。
・ここにはもちろん「地球市民」という言い方は出てきません。パウロは、神の救済史における人間の歴史
をイエス・キリスト以前と以後とで根本的に違うものとして描いています。イエス・キリスト以前の時代を
律法の時代とし、イエス・キリスト以後の時代を信仰(福音)の時代としています。今日のガラテヤの信徒
への手紙では、3章23節から25節のところでこのように記されています。
・<信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ
込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたし
たちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養
育係の下にはいません>(ガラ3:23-25)。
・このところでパウロは、<しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係のもとに
はいません>と言っています。「しかし、・・・もはや・・・」に注意していただきたいと思います。同じ
ことが語られているローマの信徒への手紙3章21節では、「ところが今や」(新共同訳)「しかし今や」
(口語訳、岩波訳)となっています。これらの言い方はすべてはっきりとした時代区分を示しています。
・先ほど紹介しました井原さんの「平和の誓い」にも示されていますが、明治以降の日本の歴史において、
1945年の敗戦は本来それまでの日本の歴史とそれ以後の日本の歴史を明確に区別する分水嶺になったはず
です。特に「日中戦争やアジア太平洋戦争などで日本が引き起こした過去の加害の歴史」への反省を踏ま
えて、憲法第9条による平和国家として、特に大変な犠牲を強いたアジアの国々との関係の修復をすべきで
す。
・ちなみに憲法第9条の条文を思い起こしておきたいと思います。「日本国民は、正義と秩序を基調とする
国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決す
る手段としては、永久にこれを放棄する。 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保
持しない。 国の交戦権は、これを認めない」。
・ところが、戦後の日本の国の歩みは、自ら敗戦の総括をしないまま、占領国アメリカの世界戦略の中に組
み込まれ、朝鮮戦争、ベトナム戦争という他国での戦争による特需で経済は豊かになりましたが、憲法第9
条による世界平和を自主的に作り出す努力をしないまま、アメリカの属国のようになってしまっています。
そして現在の政府は戦前の日本のような国をつくろうとしているかのようです。これが日本の国の現状です。
・パウロは「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係(律法)のもとにはいま
せん」と語って、過去からの区別を強調しています。そして「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イ
エスに結ばれて神の子なのです」(ガラ3:26)と言っているのです。次の27節で「洗礼を受けてキリストに
結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と言われていることからして、ここでは洗礼を受
けたキリスト者のことが第一義的には語られていると思われます。けれども、イエス・キリストは信じる者
のためにも、信じない者のためにも十字架にかかり、神によって復活して、今も生ける主として私たちの中
で霊において働いておられます。そのイエス・キリストに結ばれて、わたしたちは皆神の子であると、パウ
ロは言うとき、洗礼を受けたキリスト者のみを対象にしているとは思えません。
・信仰を告白し、洗礼を受けてキリスト者になった者は、「イエス・キリストに結ばれて、わたしたちは皆
神の子である」という福音の使信に主体的に応答しているのです。しかし、この福音の使信そのものはキリ
スト者だけではなく、すべての人に向けられているのです。
・パウロはさらにこのように語っています、<そこでは(キリスト・イエスに結ばれて神の子となった者、
キリストを着ている者においては)もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、
男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです>(ガラ3:28)と。出
自、社会的身分、性差の違いがなくなってしまうというのではなく、その違いをそれぞれが持ちながら、
それを超えて皆、キリスト・イエスにおいて一つであると言うのです。
・そして最後に、パウロは29節で、<あなたがたは、もしキリスト・イエスのものだとするなら、とりも
なおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です>(ガラ3:29)と言っています。
・以上のようにこの箇所から、パウロが私たち一人ひとりをどんな人間として捉えているかが、いくつかの
言葉で明確に示されています。
➀ 「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(ガラ3:26)
⓶ 27節で「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」
<そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありませ
ん。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです>(ガラ3:28)
ぁ29節で、<あなたがたは、もしキリスト・イエスのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハム
の子孫であり、約束による相続人です>
・「神の子」「キリストを着ている」「キリスト・イエスにおいて一つ」、「キリストのもの」「アブラハ
ムの子孫」、「約束による相続人」。これらの規定から、私たちはキリスト・イエスに結ばれてキリストの
ものとされ、イスラエルの民に代わって「アブラハムの子孫」「約束による相続人」つまり、「新しいイス
ラエル」なんだと、パウロは言うのです。神のもとにあって、すべての人が尊厳ある人として大切にされ、
互に仕え合い、愛し合って生きるようにと、イスラエルの民を選び召し出し、かく生きよ、そうすれば全て
の人に幸いをもたらす、その道を示した律法を与えたのです。けれども、律法を守ることによってイスラエ
ルの民は神の期待に応えることはできませんでした。そこで今や、律法に代わって、イエス・キリストを信
じる信仰、その福音による新しい可能性が私たちに与えられたのです。
・「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(ガラ3:26)。私たちは
ここに私たちがどんな人間であるかということを発見します。「アバ、父よ」と祈りつつ、神の独り子とし
てその生涯を歩まれたイエスに倣って、私たちも、「信仰により、キリスト・イエスに結ばれた神の子」と
して、それにふさわしく生きて行きたいと思います。
・私たちは、「地球市民」であると共に、「神の子」でもであることを肝に命じて、この厳しい時代ではあ
りますが、平和を創り出す者でありたいと願います。