なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(275)

             船越通信癸横沓機 。横娃隠暁8月14日    

・7日(日)船越教会は國安敬二牧師に礼拝説教をお願いしました。私は紅葉坂教会の礼拝説教を担当し

ました。現在紅葉坂教会は代務者はいますが、無牧状態で、いろいろな方に説教を依頼しています。私も

依頼され、8月7日の平和聖日の礼拝は、毎年特別な式文で礼拝を行っているので、慣れない方だと戸惑

うので、私にお願いできればということで、船越教会の役員会に了承していただき、お引き受けしました。

2011年3月末まで私は紅葉坂教会の牧師をしていました。それ以来既に5年以上が経過していますが、はじ

めて紅葉坂教会の講壇に立ちました。以前毎日曜日礼拝に来られていた高齢の方々の顔が大分少なくなっ

ていました。反面当時日曜学校の小学生、中学生だった子どもたちは、幼い顔立ちから凛々しい青年の顔

になっていて、5年4か月の歳月の経過を改めて実感させられました。礼拝後皆さんと挨拶を交わし、この

日昼食会はお休みでしたので、その後有志で野毛の台湾料理屋に行き、昼食を共にしました。私たちのグ

ループの他にも二組がこのお店に来ましたので、みんなで一緒に食卓を囲みました。18名でした。午後2時

半ごろ皆と別れ、私は京急日ノ出町駅に行き、何となく体が重く感じましたので、追浜駅で降りて、バス

で船越教会に行くことにしました。バス停に行ってみると、バスが出たばかりで、20分以上待たなければ

なりませんでしたので、タクシーで行きました。船越教会で来週の週報の準備と、ホームページの週報の

変更をし、来週の説教予告を墨で書き、7日のと入れ替えて、鶴巻に帰りました。午後4時は過ぎてはい

ましたが、まだ日差しは高く、日中の暑さが和らいではいませんでした。紅葉坂教会の礼拝前に買ったペ

ットボトルの水を、時々飲んではいましたが、船越教会から京急田浦駅まで歩いたのですが、余り汗は出

ませんでした。いつもならすぐ汗びっしょりになるところなのですが、京急田浦駅に着いたとき、何とな

く体に違和感を感じていましたが、気にしないで鶴巻に帰ってきました。夕食を済ませた後、いつもなら

しばらくして弘法の里湯日帰り温泉に行くところですが、この日は体が火照って、熱を測ったところ38

度以上あり、水分を十分取り、体を冷やして、すぐ休みました。それからしばらくして、頻繁に尿意をも

よおすのですが、少しずつ出ていた尿が段々出なくなっていきました。夜中の2時半ごろまで我慢してい

たのですが、とうとう我慢できなくなり、連れ合いに救急車を呼んでくれるように頼みました。私の人生

の中で自分の怪我か病気で救急車に乗ったのは、今回で2回目です。一回目は20歳前後に運転してた車

ごと煉瓦塀に激突して、意識を失って救急車で病院に運ばれたことがありました。今回は自宅のマンショ

ンから秦野日赤病院まで救急車で連れて行ってもらい、当直の内科の医者に緊急の措置をしてもらい、

翌日泌尿器科で診察してもらうということで、そのまま入院しました。

・8日(月)午前10時過ぎに泌尿器科の診察を受けて、結果前立腺肥大で、一週間、尿を管で出し、

薬で様子を見ることになりました。そのために尿を管で出す器具の説明を受けて、後は家に帰ってよろし

いということになりました。連れ合いは救急車での入院の時に一緒についてきてくれましたが、私の入院

が決まり落ち着いた後で家に帰っていました。8日は12時ころに病院に来ることになっていました。連

れ合いが来て、もう退院ということで病院の方に手続きをしていただき、家に帰ることができました。尿

の処理に手がかかりますが、後は普段と変わりなく生活してよいということでした。15日(月)に診察

に行き、その後のことが決まると思います。

・10日(水)18:30から紅葉坂教会で私の支援会世話人・事務局会がありました。出かける予定で17:00

には家を出て小田急鶴巻駅に向かいました。鶴巻駅に着きましたら、<海老名付近が一時間80ミリの豪雨

で、相模大野~秦野間で運転見合わせしています>というアナウスがあり、鶴巻駅で待ちました。約1時間

待ち、電車が来ましたのでそれに乗りました。しかし、お隣の伊勢原駅でまたストップ。伊勢原駅でも、

電車に乗ったまま約1時間ほど待ちぼうけ、午後7時近くになってしまいました。午後早めに家を出ていた

連れ合いは会に出ていましたので、今日は無理だと連絡しましたが、午後7時過ぎに電車が動き始めまし

たので、紅葉坂教会に向かおうとしました。ちょうどそのとき、連れ合いからみなが今日は無理をしな

いようにと連絡が入り、伊勢原駅から鶴巻駅に戻り、家に帰ってきました。こんな経験ははじめてでした。

・船越通信274では池住さんの文章を転載させてもらいました。池住さんの歴史認識を私たちも共有し

たいと思ったからです。さて今回も、8月9日開催の長崎平和集会での被爆者代表井原東洋一さんの「平

和への誓い」の一部を引用させてもらいたいと思います。<・・・/広島で歓迎されたオバマ大統領は、

「空から死が降ってきた」と叙情的に表現されましたが、広島のウラン型原爆に対して長崎にはプルト

ニウム型原爆が投下されたことから、私には二種類の原爆による実験なかったかとの思いがあります。

/・・・しかし、私たちは絶対悪の核兵器による被害を訴える時にも、日中戦争やアジア太平洋戦争な

どで日本が引き起こした過去の加害の歴史を忘れてはいません。/わが国は、過去を深く反省し、世界

平和の規範たる「日本国憲法」を作りこれを守ってきました。今後さらに「非核三原則を法制化」し、

近隣諸国との友好交流を発展させ、「北東アジアの非核兵器地帯」を創設することにより、平和への未

来が開けるでしょう。/国会および政府に対しては、日本国憲法に反する「安全保障関連法制」を廃止

し、アメリカの「核の傘」に頼らず、アメリカとロシアおよびその他の核保有国に「核兵器の先制不使

用宣言」を働きかけるなど、核兵器禁止のために名誉ある地位を確立されることを願っております。/

・・・私たち被爆者は、「武力で平和は守られない」と確信し、核兵器の最後の一発が廃棄されるまで、

核物質の生産、加工、実験、不測の事故、廃棄物処理などで生ずる全世界の核被害者や、広島、長崎、

福島、沖縄の皆さんと強く連帯します。長崎で育つ若い人々とともに「人間による安全保障」の思想を

継承し、「核も戦争もない平和な地球を子供たちへ!」という歴史的使命の達成に向かって、決して諦

めず前進することを誓います。/地球市民とともに核兵器廃絶の実現を!!/ナガサキ マスト ビー

 ザ ラスト/・・・>。