なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「共に育つ」平和聖日説教(紅葉坂教会で)

 以下の説教は、8月7日平和聖日紅葉坂教会の礼拝説教を頼まれて行ったものです。「イエスさま」

「神さま」という言い回しをしているところが多いですが、この紅葉坂教会の平和聖日の礼拝は、私が

在任しているときから、「子どもと大人の合同礼拝」で、独自の式文で礼拝を行っています。説教も20

分くらいで子どもを意識して作るようにしていました。けれども、私は言葉使いでは多少子どもを意識

していますが、説教の内容については普段の礼拝での説教と同じにしていましたので、今回もそのよう

にさせてもらいました。

 内容的には、7月24日の船越教会での説教と重なる部分があります。ご了解ください。


       「共に育つ」イザヤ書11:1-10、           北村慈郎

                      2016年8月7日(日)平和聖日紅葉坂教会礼拝説教


・今日は平和聖日です。聖書から平和の使信(メッセージ)を与えられたいと思います。

・皆さんは何を「平和」と思いますか?

・私の家は東京新聞を取っていますが、一面に「平和」という題の俳句が掲載されています。8月4日には

「赤ちゃんを抱けば無茶苦茶平和かな」という福井市の84歳の方の句が掲載されていました。

・私はこの俳句から福音書のイエスが子どもを抱き上げて祝福された記事を思い起こしました。弟子たち

はさえぎったのですが、イエスさまは「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」

と言って、「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受

け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われたというのです(マルコ10:13-16)。

・子どもを大切にしない社会は、平和な社会とは言えません。神さまが支配する神の国は子どもを大切にし

ます。

・聖書には、神の国がどんな国なのか、私たちがイメージできるような記事はほとんどありませんが、先ほ

ど司会者に読んでいただいたイザヤ書の箇所は、神の国をイメージできる、数少ない聖書箇所の一つではな

いかと思います。特に6節から8節のところには動物の譬えで、神の国がどんな国なのか、私たちがイメージ

できるように語られています。そのところをもう一度読んでみたいと思います。聖書をご覧になれる方はイ

ザヤ書11章6節から9節を御覧ください。

・<狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。

/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴

に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともな

い。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる>。

・新共同訳聖書の表題には「平和の王」とありますが、このイザヤショの言葉は、私たちのところに平和を

もたらす王として神さまが平和をもたらす救い主を遣わしてくださるという預言です。

・ご存知のように、このメシヤ預言はイエスさまにおいて実現したと、新約聖書は語っています。

・イエスさまの誕生物語の中で、夜通し羊の番をしていた羊飼いたちに天使が現れ、救い主の誕生を告げた

後、「神には栄光、地には平和」と天使に天の大軍が加わって賛美したと記されています(ルカ2:14)。ま

たイエスさまがロバの子にのってエルサレムに入城したときに、群衆は<ホサナ(救い給え)。/主の名に

よって来られる方に、/祝福があるように。/我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。/いと

高きところにホサナ(救い給え)>と叫んで迎えたと言われています(マルコ11:11,12)。

・先程のイザヤ書には平和の王が到来したときには、「何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」言われて

いました。福音書に記されていますイエスの生涯は、正にこの世の権力の犠牲になっている貧しい人々、苦

しんでいる人々と共に生きることによって、この言葉を実現しているのです。強かろうが、弱かろうが、そ

の違いを認めて合って、人は「共に育つ」のです。イエスさまは権力が支配するこの世においてそのような

神の国を生きたのです。イエスさまは権力によって、また権力になびいた群衆によって、更にはイエスさま

を裏切り、否んだ弟子たちによって、十字架に架けられて殺されましたが、神によって復活し、今も霊にお

いて私たちと共にいてくださるのです。

・このイエスさまを平和の主と告白する人の集まり、それが教会ではないでしょうか。私たちが集まらなけ

れば教会は成り立ちませんが、私たちが集まっただけでも教会は成り立ちません。平和の主であるイエス

中心にいなければ、人が集まっただけでは教会ではないのです。その教会が第二次世界大戦の時には、平和

の旗印をおろして、戦争に協力してしまいました。この紅葉坂教会にもその傷跡があります。

・先程受付で私が紅葉坂教会の牧師時代に出しました、教会だより臨時号「平和聖日特集号」を出席者の方

に配っていただきました。この平和聖日特集号には、当紅葉坂教会が戦時下の礼拝に当時の日本の天皇制国

家によって弾圧され、教会を解散させられたホーリネス教会の牧師さんがいらしたときに、そのホーリネス

教会の牧師さんの礼拝出席をお断りしたという事実が取り上げられています。このことは、私が1995年に当

教会の牧師に就任した直後に、神奈川教区の先輩の牧師である故依田俊作さんから、北村さん金沢八景教会

の牧師を尋ねて、一度話を聞いておいた方がいいよ、と助言を受けました。私は、すぐにその牧師さんを尋

ねてじっくりお話を伺いましたが、その限りでは、これは事実に違いないと思いました。神奈川教区がホー

リネス教会に謝罪文を出した時に、「ある教会では」という言い方で、この事実に触れられていたのを、Hさ

んが週報のコラムで、そのことを取り上げて、神奈川教区がこの事実に触れているのは、紅葉坂教会の痛み

を同じ痛みとして感じつつなのかという問いと共に、紅葉坂教会としてはこの事実は事実として認めなけれ

ばいけないと書いたのです。それに対して当時まだ健在であった戦時下紅葉坂教会の牧師のご子息が、戦時

下牧師であった父は大変厳しい状況の中で教会を「死守した」、命を賭けて守ったのだ。ホーリネス教会の

牧師に対する礼拝出席拒否が事実ならば、牧師である父があの厳しい戦時下の状況の中で教会を護ったこと

も事実ではないか、紅葉坂教会はその父である牧師をどう考えているのかと、お叱りに近い文章を寄せて来

られたのです。この三つの文章と、説明文とその年の「平和聖日を迎えるに当たって」という私の文章を添

えて「平和聖日特集号」として出したわけです。後でゆっくり読んでいただければと思います。

・戦時下ホーリネス教会牧師の中には弾圧で亡くなった方がいます、横浜でも西区の浅間下から三ツ沢に上

るところにあるホーリネス教会の菅野鋭(すげのとし)牧師が亡くなっています。「1942年6月26日 第一次

一斉検挙の際に逮捕され、拘置所生活を送ったが、1943年12月1日 肺結核の再発により獄中死する」(ウキ

ペディア)。その葬儀に教団の牧師はだれ一人参列しなかったと言うのです。これは『横浜指路教会百二

十五年史』(38頁下段)に記されているそうです(櫻井重宣『「戦責告白」40周年を覚える神奈川教区集会

報告集』14頁)。

・おそらく当時私自身がいたならば、同じことをした可能性は否めません。余にも絶対的に戦争協力を迫っ

て来る国家の圧力に対して、「非国民」と言われるのを恐れて、逆らうことができない自分の弱さを感じる

からです。ですから、戦時下の紅葉坂教会でホーリネス教会牧師の礼拝出席をお断りしたということも理解

できないわけではありません。一方その牧師さんが教会解散によって住むところがなくなったのを、当時の

横浜明星教会の牧師さんが教会の一室をその牧師さん家族のために提供して住まわせたということも事実な

のです。

・ドイツの教会には、ヒットラーのナチズムの時代、600万人のユダヤ人虐殺が行われたと言われています

が、平和の主であるイエスさまを旗印に命を賭けて生きた人々がいました。その人々が、「私たちは平和

の主イエスさまだけに従います。その他のものには従いません」という、自分たちの主張を公にしました。

「バルメン宣言」と言います。

・バルメン宣言の第一テーゼにはこのように記されています。「聖書においてわれわれに証しされている

イエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の

御言葉である。/教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さら

に他の出来事や力、形象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤

った教えを、われわれは退ける」。

・この信仰に立ち、私たちがイエスを平和の主として告白するならば、霊において私たちと共にいたもう

復活の主イエスにふさわしい振る舞いを、私たちは選ぶに違いありません。国家の圧力を恐れる自分があ

ることは否定できません。けれど、そのような私たちと共に、私たちの弱さを強さに変えて下さる主イエ

スがいてくださること、その主イエスを見失わないでいることが許されるならば、権力に対峙して立ち続

ける主イエスと共に私たちも立つ事が許されているのではないでしょうか。そのように、どんな状況の中

でも、私たちは主イエスを「信じて歩みを起し」(本田哲郎)ていきたいと思うのです。

・第三次安倍内閣によって憲法改悪が試みられる可能性が現実になりつつある今年の平和聖日に当たって、

そのことを皆さんと共に確認することができれば幸いに思います。

祈ります