なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(33)

                 
 今日は「牧師室から(33)」を掲載します。これも1999年に教会機関誌に書いたものです。

               
                   牧師室から(33)


 この教会だよりが出る時に、臨時号がほぼ同時に発行されることになりました。臨時号は今年の「平和

聖日」(8月1日)に向けたものです。戦時下に私たちの教会が弾圧を受けたホーリネス教会の一人の牧師

に礼拝出席を遠慮いただいたという事実をめぐって、もう一つの事実がH兄から寄せられました(臨時号

参照)。私は役員会に諮って、H兄が寄せられた文章を何らかの形で教会の記録に残すことと、諸兄姉に

読んでいただくために、教会だよりの臨時号とさせていただきました。

 戦時下の私たちの教会は国家の弾圧から教会を守るために、既に弾圧を受けて教会を閉鎖させられたホ

ーリネスの一人の牧師に礼拝出席を遠慮願ったのです。当時の教会の方々が教会を代表するH牧師と共に

教会を「死守」されたという事実とホーリネスの牧師の事実、この二つの事実をどう考えたらよいのか

が、今後の私たちの課題です。このことの評価と批判は、同じ情況に置かれたときに私たちだったらそう

だったかということを踏まえてなされなければなりません。

 いすれにしても、過去の歴史の検証とそこから学び今後の私たちの生き方に繋げるためには、単なる過

去の正当化や安易な批判ではなく、私たちがその事実の重さを受け止めたところから何をしていくかが問

われていると言えるでしょう。歴史は繰り返すと言われます。私たち自身が問われる時が既に来ているの

かも知れません。

                                   1999年7月


 今年は7月20日前後から、梅雨明けとともに猛暑が続いています。これを書いていますのは、8月7日早

朝ですが、その間ここ2日程夕立のような雨が降っただけです。空はやけに青く高い感じで、風が案外涼

しくて助かります。

 教会だより6月号で、ペンテコステの礼拝後に行われた「音楽の捧げもの」の記事が掲載されていまし

た。お読みになったと思いますが、その中で、クリシュナ国際協会の方々の写真が載っていました。当

日、彼らは、私が会の終了を宣言した後に、飛び入りでうたと踊りを披露してくれました。当日の参加者

の中にも違和感を持たれた方もあったかと思いますし、その後クリシュナ国際協会が宗教(1964年アメリ

カで開教した、日本で言うと「新・新宗教」の一つ)であることを知って、注意された方もあったようで

す。

 私も、うっかりクリシュナ国際協会という集団がどういうものであるか、その段階でははっきりと認識

していませんでした。うたや踊りは今風の癒し(療法)に通じるものがあるくらいに考えていました。そ

の後、前に読んだ橳島次郎『神の比較社会学』を調べていた時、ハレー・クリシュナ(クリシュナ国際協

会)が統一教会や、サイエントロジーと共に新宗教教団(カルト)に挙げられているのを知って、びっく

りしました。私は、カルトを敵対視するものではありませんが、他宗教の方々との交流は、よく準備して

からでなければと反省させられました。今後はそのようにしたいと思います。

                                 1999年8月


 
 約一年半前の1998年度の教会総会で、私の牧師任期再任の件が諮られた時、2期目から「黙想と祈りの

夕べ」を教会の集会として始めたいと、私は抱負の一つとしてお話しました。覚えておられる方もいらっ

しゃると思います。いろいろ考えて来ましたが、今回役員会の了承を得ました、この10月第1日曜日より

毎週日曜日午後7時から始めることにしました。

 このような会の必要を考えるようになったのは、当教会に来る前からです。教会は痛みをもって集まる

人に癒しの場となっているだろうかという私の中での問いが、「黙想と祈り」の会を考えるようになった

きっかけです。また、日曜礼拝は元気でないとなかなか出られないとおっしゃる方に何人か出会ったこと

も、そのきっかけの一つになっています。

 私自身の中にも本当にこれでよいのかという思いがあり、それが自分の生きる力を削ぐ時があります。

そんな時、自分は大きな命との繋がりを欠いて、本来の自分を生きていないのではと思うのです。神によ

って生かされて生きる道は、イエスさまの命に連なり生きることではないでしょうか。「祈ること、働く

こと、生きること」が一つになってこそ、私たちは大きな命との繋がりの中で孤独ではなく、イエスさま

の群れの一員として見えない一つの命の輪にあって生きることができるのではないでしょうか。教会にと

っての癒しとは、そのようなものではないかと思うのです。

 どうぞ「黙想と祈りの夕べ」を覚えて、お支えください。

                                      1999年9月