なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信復刻版(149)

 今日は「父北村雨垂とその作品」を掲載する予定でしたが、船越に持ってきた入力したはずのメモリーに途中までしか入っていませんでしたので、「黙想と祈りの夕べ通信復刻版(149)」を掲載します。

   黙想と祈りの夕べ通信復刻版(149[掘44]2002.8.4発行)

 今日は午後神奈川教区の「国家秘密法」反対特別委員会主催の講演会「有事法制・防衛秘密―国家秘密法はこれkら?」がありました。講師は和光大学の清水雅夫さんという方でした。この方は90年頃に明治大学の雄弁部に所属していたようですから、比較的若い学者のようです。レジメによって有事法制がもつ危険性を丁寧に話してくれました。

その講演の結論のところで、現在の政府が進めようとしている国づくりとは違う、憲法の視点から「もう一つの道」である対案を提示し、「党派的な細分化運動から大同団結の運動へ」という運動論を示してくれました。また、運動についても、従来のデモや署名活動のようなステロタイプ化したものではなく、有効な運動形態を創り出す必要があると語っていました。

清水さんの講演を聞いて、従来の左翼系の学者とは違うフレキシブルな発想が感じられて、若い学者の可能性に期待したいと思いました。そして、私自身も憲法の視点からの「もう一つの道」についてよく考えていきたいと思いますし、その「もう一つの道」を求めて多くの人と手を組んでいかなければならないと思わされました。


 上記の私の発言に続いて、一人の姉妹が発言しました。今日教会から帰ったら、友人の姉妹が訪ねて来た。彼女は現在の教会に転会して、落ち着いた教会生活が送れると言った。彼女は信徒講壇で話した原稿を見せるために私を訪ねて来て、長い祈りをして帰って行った。その後遅い昼食を息子と二人でしたとき、息子と自然に信仰の話が出来た。結論としては、神は良い人にも悪い人にも雨を降らせ、太陽を輝かせてくれるということに落ち着いた。上記の姉妹が訪ねて来なければ、休むつもりだったが、膝が痛む私が今日の黙想と祈りの夕べに出席できたのも、息子が行きたければと車で送ってくれたから来ることが出来た。感謝である。


 また、別の姉妹は以下のように発言しました。先週地区集会が当教会で行われ、「合同のとらえなおし」の話があったが、その後沖縄に行けるように祈っていたところ、その集会に出ていた牧師から、この夏急遽沖縄ツアーを計画したので行かないかと誘われ、驚きと不思議さに二つ返事で行くことにした。今日から日曜学校では礼拝で平和について語ってもらうことになっている。今日はA姉が話してくれた。姉妹は年表を作って丁寧に話してくれた。子どもたちは真剣に聞いていた。後で姉妹がその真剣な子どもたちの態度に自分が緊張したと言われた。平和について機会があれば学んで行きたい。今日の教区の集会の講師は、国家秘密法から平和を語られる中で南北問題という地球規模で捉えた視点に感心し、視座の大切さを思わされた。


 もう一人の姉妹からも発言がありました。先日寿青年ゼミに参加することができた。寿の町を実際に見て、炊き出しに集まってきた人たちとソーメンを食べたりできてよかった。この教会に来る以前、横浜に来て2年間になるが、他の教会に行っていた。そこの教会では、礼拝に行って帰ってくるだけだった。仕事は楽しく、やりがいがあるが、仕事が休みの時は、なぜ自分はここにいるのか寂しいという思いが強く、仕事をやめて家に帰ろうと思ったこともあった。4月からこの教会に来るようになって、同世代の青年との交わりもあり、寿からもいろいろ学ぶことが出来うれしい。
 
 そして一人の兄弟から以下のような発言がありました。今日の午後の集会に参加しての感想だが、南北問題との関連で我々の生活レベルを落とす話があったが、日本の向かう方向としてアメリカやイギリスではなく、せめてヨーロッパのような社会がよいのではないか。今朝の伝道師の説教の中に「自分らしく生きる」ということが語られていたが、自分にはそのことが響いた。教会の中で自分らしく生きることは可能か。教会でも教会に従順な人間がつくられることもあるのではないか。


         「仕事と身分」(『ルターの日々のみことば』より)

    奉仕であれば奉仕をすべきである。  ローマ12:7

 仕事や身分には、相違がなければなりません。ひとつの身分でなく、多くの身分があるからです。しかし多くの異なった身分も、み霊による一致に達します。からだに多くの肢体があっても、すべてが目であるわけでなく、目だけが目であります。それぞれの肢体が独自の身分をもち、独自の仕事をもっています。しかし多くの異なった肢体があっても、すべての肢体とひとつのからだを維持する飲み物はひとつ、食物はひとつ、生命はひとつです。それと同じように、神によって定められて、この世の生活にはいろいろな身分と仕事についた人々がいますが、神はひとつの目的のためにひとつの統一体としておつくりになっているのです。

それは各自が自分の仕事を全うしながら、自分の身分に課せられた各自の働きをなし、しかも神の前にはどのような身分も人物も平等であるというけんそんさをもってそれをなすことです。すべては平等に創造され、神の恵みを公平に受け、だれも自分の地位が高いからといって思いあがり、神と隣人の前に自分を誇ることのないためです。高い地位にいて、まことのけんそんの精神を失うならば、彼の罪は、他の身分の低い人よりもはるかに恥ずべきものであり、はるかにきびしくさばかれることを認めなければなりません。


 それゆえ、あらゆる人は自分の召された仕事において、よい戦いをしなければなりません。あなたがたが男であっても女であっても、次のように考えるならば、正しい戦いをしているのです。「わたしはわたしの仕事を全うしよう。わたしは修道院に逃げこますに、神がわたしに与えてくださった働きをし、これ以外のことを求めまい」。あなたがたが夫であっても、妻であっても、それは神から召しを受けているのです。しもべ、はしため、市長、みなしかりです。

 しもべが主人にむかってつぶやくことはよくあることです。そのような場合に、わたしは主人に対して罪を犯したのではなく、神対して罪を犯したと考えるならばどうでしょうか。
                           1531年の説教から

(今回のルターの最後の行は、封建的な身分制を固定した上での言葉ですから、そのまま受け入れられませんが、『ルターの日々のみことば』は、私には、今読んでもいろいろと教えられるところが多いと思っています。)