なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(113、復刻版)

         黙想と祈りの夕べ(通信 113[-8]2001・11・25発行)

 
 11月18日の『ルターによる日々のもことば』は、第一コリント15章44節「肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである」をテキストにして、「新しいからだ」という表題がつけられていました。私は、このパウロの「霊のからだ」(復活体)について、大分前から自分なりの実感をもって信じられるようになりました。

 以前この教会の伝道師だったときに、確か年長者の集いで話す機会があり、聖書の神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であり、死や死後のことよりも、生きている現実が大切であるという話をしました。たまたま当時当教会に出席しておられた、その頃はフェリス女学院の院長で、私の神学校の校長でもありました桑田秀延先生も、その集いに出席していました。後で先生にお会した時に、先生から、「君は年長者の人たちがどんな思い出いるかを考えて、あの話をしたのかね」と言われたことがあります。

 1975年ごろですから、私も30代前半でした。上記のような話をしたわけですから、その頃は、「霊のからだ」についても、「からだの復活」についても、聖書の言葉としては読んでいましたが、自分の中では実感を伴わない、空虚な言葉だったように思います。けれども、「霊のからだ」にしろ「からだの復活」にしろ、いつ頃であったかは忘れましたが、神の約束の素晴らしさのひとつとして、受け入れられるようになっていました。

 肉にある限り、私たちの存在は罪や汚れから完全には自由にはなれません。けれども、この私たちの汚れたからだが神のみ心にふさわしい「霊のからだ」「復活のからだ」に変えられること、そしてそれが単なる未来にではなく、現在すでにその約束の中にあることを思いますと、「霊のからだ」「復活のからだ」にふさわしく生きる希望が涌いて来るからです。

 今日は午後に三ツ沢の教会墓地で「墓前礼拝」がありました。この教会墓地には沢山の兄弟姉妹が埋葬されています。今回新たにO兄の納骨が行われました。すでに召された兄弟姉妹も、いずれ召される私たちも、すべての者が神のみ心にふさわしいからだに変えられて、神の前に集う日を望みつつ、日々を生きることが許されている幸いを感謝するものです。

 上記のよな私の発言に続いて、一人の姉妹が自分の病いと家族の今後について話してくれました。出席者は彼女を入れて4名でしたが、「分かち合い」の後の「祈り」において、彼女とご家族のことを覚えて共に祈りました。

 彼女は10月初めに突然教会に来られ、私と面談しました。自分の病気と家族のことを話されて、閉塞状態だった自分の気持ちが少し楽になったと言われて、帰って行かれた方です。自分の苦しみと背負わなければならない家族の重荷に打ちひしがれそうになるのを、信仰の力で何とか歩んでいきたいという切実な思いで、教会の門をたたいたようです。何とか彼女に道が拓かれるようにと、祈っていきたいと思います。もしかしたら、近いうちに事情があって、ご両親がいる宇都宮に引っ越されることになるかも分かりません。

 この日も黙想と祈りの夕べの後に、しばらくお茶を飲みながら懇談の時を持ちました。たまたまその日出席していた一人の兄弟が、彼女と同じ病を経験していて、彼女に彼なりのアドバイスをしていました。また、もう一人の姉妹は、私のできることがあったら、言ってねと、彼女に声をかけていました。

  
         「時の終わり」(『ルターの日々のみことば』から)

 そのために、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示して いる忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇りとしている。 
                             (第二テサロニケ1:4)

 まずここで、パウロはテサロニケにある彼の教会をほめております。そして、さらにいっそう成長するようにとすすめ、パウロが他の諸教会に、福音の宣教と理解がどのように実を結ぶかということの模範とし、見本として示せるようにと訴えております。また、パウロはキリストのまことの教会の建物と発展が、なにに存しているかを示しております。それから(彼らの苦しみと忍耐について)彼らを慰めております。それは主キリストが彼らのあがないのために栄光のうちにおいでになり、彼らの悲しみを安息と喜びとによってむくい、彼らを迫害した者たちを永遠に罰せられるということによります。

 こうして、キリスト者の苦しみはいつまでもつづくはずはありません。キリスト者が永遠に苦しみ、死に、死のうちにとどまることは、神のみこころであるはずがありません。神はみことばによって、神をおそれ、信頼し、神によって大きな約束を与えられた聖徒たちの神となる、とあかしされているからです。それゆえ、神の目的は違った贈り物を与えることにほかならず、それゆえにこそ、キリスト者が地上で苦しむことをお許しになるのです。すなわち、それぞれにふさわしい報酬を与えるという神のみこころが啓示されるためです。それゆえ、キリスト者の苦しみと、この世の邪悪、暴虐、怒り、聖徒たちの迫害は、どちらもきたるべき今ひとつの生命と、神の最後のさばきがあるというひとつのあかしにほかならないのです。このさばきを通してあらゆる人は、善人も悪人も、それぞれにふさわしいむくいを永遠にたえず受けるのです。
                           (三位一体後第二十六主日の説教)