なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(125)復刻版

       黙想と祈りの夕べ(通信125[-20]2001・2・17発行)復刻版

 今日の午後に紅葉坂教会で教区の集会がありました。核問題小委員会と基地問題小委員会の共催で開かれた公開学習会です。テーマは「9・11後の“平和”とは?基地・核~憲法~」で、講師はダグラス・スミスさんという方でした。講演が終わって、質疑応答がありました。その中のひとつの質問は「原理主義について」というものでした。講師のお答えの中に、アメリカのキリスト教原理主義のことが紹介されていました。こんな事例があるというのです。キリスト教原理主義者が中絶反対ということで、中絶をしていた医師を殺害したというのです。

 講師は、中絶反対という主張の中にある命への畏敬が、なぜ医師の殺害という命の抹殺になるのかという問いを提起されていました。そして、原理主義を生み出す三つの一神教であるユダヤ教キリスト教イスラム教の問題に触れて、キリスト教を信じる人たちは、聖書の聖戦思想についてそれをきちっと批判し、原理主義の問題にも答えられるようにして欲しいと、おっしゃっていました。彼は、自分は宗教をもっていないと、おっしゃっていました。

 この講師のお話を聞きながら、今回の9・11のテロ事件やその後のアメリカによるアフガン攻撃の思想的なバックボーンとなっている原理主義の問題に、キリスト教に関わる者としてきちっと答えられるようにならなければと思わされました。単なる批評ではなく、自分が信じる聖書やキリスト教の中にある同質の問題をどう整理し、どう止揚していくのかをやっていかなければなりません。大変重い課題を与えられた集会でした。

 私は、ボンフェッファーの「成人」という考え方に惹かれてきました。成熟した世界におけてキリスト者は、神を信じ、神なしに一人の成人した人間としての責任をもって生きるというものです。人間の世界の中に神を持ち出しその神の名において自らの行為を正当化する、そのような神信仰がなお横行しているかに見える現在にあって、このボンフェッファーの思想は、現在でもある妥当性を持っていると言えるでしょう。

 上記の私の発言に続いて、一人の姉妹が下記のような発言をしました。

 ヨーロッパの教会建築をテレビなどで観ていて、その建物の壮麗さが際立てば立つほど、その建築物を実際に作った人たちや、その社会の貧しい人たちはどうだったのだろうかと思わされてしまう。神の名において教会建築も行われるのだろうが、そのような神とは何だろうか。

 今日、日曜学校で十戒の話が取り上げられた。紅海の渡河のビデオを観た後、一人の子が「エジプト軍には悪魔がついているから、悪い神さまだから溺れてしまったんだよね」と言った。それを聞きながら、イスラエルの神は良くて、エジプトの神は悪いという唯一神観の恐ろしさを感じた。教会建築や絵画に、その時代の教会や信仰者の信仰告白が込められているのだろうが、後にそれを見る者を神へと導く助けになるという反面、偶像崇拝にもなり易いように思う。天にそびえる建物を建てた人々の思いと後の時代の人の思いとの違いを感じる。日本の教会は、言葉中心で、もっと五感で感じられるものを通して神を感じる必要があるという考え方もあるが、私はこういった建築や絵画を見る時、揺れている自分を見出すのである。

        「父なる神の証印」(『ルターによる日々のみことば』より)

「父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」ヨハネ6:27

 このことばは強調されております。ちょうどこのように言っているようです。人の子の父は悪者でも、よこしまな人でもない。それがだれか知らせてあげよう。神ご自身である。神と呼ばれる父である。この父がみ子に目をとめ、あらゆるものを彼に従わせ、それによって、わたしたちが彼の肉を食べ、血を飲んで、養われるためである。もしそうでなければ、わたしたちすべては滅びなければならない。父なる神は、キリストに証印を押し、み子キリストのみをわたしたちの前におき、キリストにだけ、そのみこころと恵みをゆだねておられる。
 神は、このように、キリストの証印を押されました。それはひとつしかない証印です。父は、キリストにのみ聖霊を与えられました。それは、全人類がキリストのみに帰り、全聖書がキリストをさし示し、キリストのみが標語となり、証印となるためです。それはキリストが、神のかたちであり、わたしたちを助けてくださる唯一のかたとして、最初に生まれ、与えられ、つかわされたかたであるからです。神ご自身が「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」とおっしゃったとおりです。父なる神がキリストに証印を押されました。それゆえ、わたしたちはキリストのみを受けいれ、キリストにのみ聞かなければなりません。
                      ヨハネ福音書6-8章の説教