なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(124)復刻版

     黙想と祈りの夕べ(通信124[-19]2002・2・10発行)復刻版

 かつて私は名古屋にいたときに、G教会の開拓伝道の場所であった赤池に近い日進町に住んでおられる未知の一人の姉妹から、お手紙をいただきました。その方はAさんの友人であり、一年以上Aさんを通して送っていただいている「黙想と祈りの夕べ通信」を読ませてもらっているというのです。姉妹は「通信」を読んで感じるものと、今通っている教会との間に何か違うものを感じているようです(このことについては、後日私はお手紙を出し、そこで「通信」はあくまでも個人の信仰と生活とのつながりに焦点があり、教会の営みはまた別であるということを書きました)。

 そして「突然不躾けなお便りを差し上げましたが、どうぞこのあたたかいお便りをお続けください。半年前主人を亡くして今一人で過ごしておします。機会がありましたら、不便なところですが、お訪ね下さいませ」とありました。私は、これを始めたときに、教会の礼拝に参加できなくても、聖書と祈りを大切に生きて行くとき、広い意味では、大きなイエスの命の輪に連なっていることになると思いました。そしてそのように生きる者はすべてイエスの群れの一員としてあると思います」というメモを同封して「通信」を送り、今も続けています。愛知県の日進町に一人の姉妹、Aさんを覚えて、祈っていきたいと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の姉妹が以下のような発言をしました。

 先週自分が昼食作りのボランティアとして関わっている障がい者の作業所の旅行があり、急に一人欠員ができたので行ってもらえないかと言われ、参加した。もう30年ほど前に障がいのある子どもたちと関わっていたことがあり、その頃その子どもたちと出かけたりすると、バスの運転手の方が差別的な発言をすることがあった。今回は障がいのある20歳から50歳くらいの大人の方たちで、日帰り温泉に入ったり、つるし雛のお店にドカドカと行っても、差別的な扱いや発言はなかった。温泉からみんなが出てきたときも、近くにいた夫婦の方が、着替えさせたり大変だよねーと、好意的に話しかけてくれ、うれしかった。先日参加した全障研の講師が語った、「知的には3歳と言われていても、心はその人が死ぬまで育っていくので、その育っていくのを邪魔しないようにしなければならない」との言葉が、今回の旅行で、本当にそうだと思えた。目に余ることをしている人がいると、他の仲間が、「やめときなー」と声をかけたり、他の部屋のベットにもぐりこんで窮屈にしていても、それを許している人たちの姿に、温かさを感じた。差別的なバリアーが段々と薄れていっている社会を喜ぶとともに、今日一緒に過ごした日曜学校の子どもたちと共に心を育てあっていきたいと思った。

 また別の姉妹が、先週の火曜日にあったK老人ホームの奉仕について話された。今回はいつもより参加者が少なく、5人であって。今まで5人ということはなかった。心してやったので、仕事は順調にいった。この奉仕は、ホームの職員の方からも喜ばれているのが感じられる。紅葉坂の方々は魔法使いだという評判で、何をもっていっても仕上げてくれると言われている。おだやかで楽しい一日だが、参加される方が高齢になって、少なくなった。もう少し多くの方の参加を希望する。

 初めてこの集いに参加した兄弟は、現在キリスト教主義の女学校で高校の教師をされています。自分の担任のクラスに、不登校気味の子がいて、何とかその子が卒業できるように頑張っているが、親や教師や友達でも簡単に解決できるものでもなく、祈る以外にないと感じていると話された。

       「麦の中に毒麦を」(『ルターによる日々のみことば』より)

 人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。
                              (マタイ13:25)

 このたとえの意味は、キリスト者、特に説教者は、自分の教会に聖徒ばかりがいるようにできなかったといって、落胆したり、元気をおとしたりすべきではないということです。悪魔はけっして遠く離れて立っておりません。いつの間にか種をまいて行きます。それで芽が出てきますと、すぐそのことがわかります。パウロの場合にも、ヨハネの場合にも、他の使徒たちの場合にも、この問題が起こりました。福音のうちに信心深い聖徒と忠実な働き人が与えられると望んでいたところに、もっとも邪悪なならず者と、もっとも激しい敵が現われました。そして現在のわたしたちもこのことが起こっております。信心深く正しいと思っている人たちが、最大の危害を加え、いちばん障害をきたらせます。それはわたしたちが眠って、悪に油断をしているからです。

 そこで、キリストがこのようなことが起こると警告してくださっていることが唯一の慰めです。このためにヨハネも彼の手紙の中に書かれているように困難に直面しながら、慰めを得ることができました、「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである」。最善であるべきはずのものが最悪のものにかわるというのが、この世のならわしです。天使が悪魔になりました。使徒ひとりがキリストを裏切りました。キリスト者が異端者になりました。神の民から、キリストを十字架に釘づけする悪人が出ました。

 今日もこれと同様のことが起こっております。それゆえ、わたしたちの宣教のわざのうちに、麦の中に毒麦がはえているのを見ても、おどろいたり、落胆することなく、むしろ、確信をもって前進し、だれも迷わないようにわたしたちの兄弟にすすめなければなりません。

                                 1544年の説教から