なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(217)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(217)」復刻版を掲載します。


        黙想と祈りの夕べ通信(217[-8]2003.11.23発行)復刻版


 11月8日の土曜日にH教会で神奈川教区の宣教方策会議がありました。この会議は教区の来年度の計

画を立てるものです。教区の働きを担うそれぞれの委員会の責任者と教区執行部によって、来年2月の総

会の議案にするため常置委員会での討議に資するために毎年持たれている会議です。私は寿地区活動委員

会の責任を持つようになって、2回目の出席です。2004年度の教区活動基本方策案の中の「教区の宣

教」の課題に挙げられていますのは、25項目で、その中には狭義の伝道に関わる働き、例えば伝道集会

をするというものはありません。21の「教職、信徒の研修を行う」とか23の「各個教会の青年会およ

び青年の活動の充実を図る」や24の「各個教会の女性および各地区婦人会の活動の充実を図る」など

は、多少関わるかも知れません。方策会議の参加者の一人から、方策案には伝道の働きがないので、それ

を入れてもらいたいという発言がありました。その発言は、教区財政の逼迫による各委員会の予算を来年

度一律5パーセントカットするという話題がでていましたので、伝道して教勢を上げなければという発想

からのものでした。それに対して、社会福祉小委員会のI牧師から以下のような発言がありました。社会

福祉小委員会では毎年夏に「障がい者と教会の集い」を開き、参加者が年ごとに増えている。最近は心の

病をかかえる方の参加が多く、集いの後に参加者の中でまだ教会に連なっていない人には、近所の教会を

紹介しているが、なかなか教会の受け入れが十分でなく、結びつかないことが多い。伝道と言うなら、

障がい者と教会の集い」では伝道的な働きも担っているといえるのではないかと思っていると。教会に

とって伝道とは、人数を増やすことだけではなく、それぞれの重荷を抱えて教会の門をたたく人を受けい

れ、共に歩むことができるかということではないでしょうか。

 上記の私の発言に続いて、ひとりの方からの発言がありました。先週の黙想と祈りの夕べ通信に載った

「救らい運動」に関する私の発言に対して、二人の方から、抵抗を感じたと言われた。献金がK社に「流

れた」と講師が言われたが、それには抵抗を感じた。また、献金は全部K社にいったわけではなく、神奈

川県出身のハンセン病の方には神奈川新聞が届けたり、タイで学校を建てるために用いられ、K社の運営

の為にだけ使われたのではない。確かにそういう事実はあるだろうが、私の言いたかったことは、教会が

何か助けをするときに、それは真実の助けなのかどうかをよく吟味してしなければならないということで

ある。ハンセン病の方が隔離の必要が無いのに、隔離のために献金が用いられたこと。教会が語る平安

が、怒りを語らざるを得ない人にそれを素直に語ることを抑える働きをしているとすれば、それは問題だ

と思う。福音書のイエスの怒る姿を思い浮かべると、ノーと言わなければならないのに、ノーと言わない

人を教会はつくってしまったのではないか、反省させられる。二人の方から率直に意見を言われてうれし

かったが、募金活動のようなよかれと思ってやることは、丁寧に関わらないと、却ってやらなかった方が

よいということになり兼ねないのではないか。

 もう一人の方からの発言もありました。社会活動より伝道という場合、その伝道には危険を感じる。ボ

ランティア活動を通して社会活動をしていくことで感じさせられているが、その人の命に係わる仕事が伝

道ではないかと思っている。

     
       「収穫感謝」(『ルターによる日々のみことば』より)

 よろずのものの目はあなたを待ち望んでいます。あなたは時にしたがって彼らに食物を与えられます。    
                                  詩篇145:15

 ここで神が、麦を成長させてくださることを学ばねばなりません。それゆえ、わたしたちは神を讃美

し、神に感謝します。わたしたちが飲食のために必要とする麦、ぶどう、その他あらゆうる果実を成長さ

せるのはわたしたちの働きではなく、神のたまものであり、祝福であることをみとめなければなりませ

ん。「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」と主の祈りを祈ることはその証拠です。

「お与えください」ということばによって、わたしたちはそれが神のたまものであり、わたしたちの造る

ものでないことを告白します。もし神が「与えて」くださらないならば、穀物は実らず、わたしたちの耕

作もむなしいでしょう。種が全部、土の中で悪くなったり、凍ったり、腐ったり、虫に食われたり、洪水

で流されたりする場合、それはなんと速かにくることでしょうか。また、やっと育っても、暑さや、ひょ

うや、寒さにやられたり、かぶと虫その他の動物に食われてしまうことが、どれほど多いことでしょう

か。しかも刈り入れる時ですらも、だれかに持って行かれたり、虫に食われたりする危険があるのです。

 ですから、わたしたちが麦畑を見る時は、神のいつくしみだけを思わず、神の力を思いめぐらしつつ、

このように考えなければなりません。「ああ、わが愛する穀物よ。神がその豊かないつくしみを深いあわ

れみにより、なんと豊かにおまえをわたしたちに下さることか。また、お前がまかれてから、食卓にのぼ

るまで、神はどれほどの力でお前を守られたことだろうか」

 敬虔な信仰を持つ心は、わたしたちの耕作や、種まきや、その他の働きが、神のいつくしみによって支

えられなければ、空しいことをよく知っています。わたしたちは熱心ン委仕事をして、土から食物を求め

なければなりませんが、だからと言って、自分の働きに信頼をおくようなことがあってはなりません。神

の祝福と、神の力ある保護が成長には不可欠なのです。

                                   詩篇147篇の講解