なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(231)復刻版

 今日も「黙想と祈りの夕べ通信(231)」復刻版を掲載します。

       黙想と祈りの夕べ通信(231-22]2004・2.29発行)復刻版

 2月21日(土)に神奈川教区総会がS教会で開かれました。私が提案者になって出しました議員提案議

案「沖縄教区との関係の回復を図る件」は、過半数69名に対して83名の賛成で可決されました。前回の議

案「沖縄教区常置委員会声明に賛同の意を表する件」は過半数69名に対して66名の賛成で少数否決されま

したので、今回の議案は内容としては沖縄教区との関係の回復を図るという少し後退したものでしたが、

議場において説得力のある賛成意見もあり、前回より17名賛成票が増え可決されました。このことは議事

内容によってまだ神奈川教区総会は流動性があることを示すものであり、今後の働きかけに小さな光が感

じられた総会であったと思います。さて、その総会で別の常置委員会提案の議案「『自衛隊イラク派遣

に対する即時中止を求める声明』に関する件」(可決)の審議の中で、若い伝道者からテロについての発

言がありました。彼の認識ではテロは過激派による爆弾テロなどのような行為を指すもので、そのような

テロの根絶のためのアメリカや国際社会の行動を正当化する発言でした。それに対して一議員から、チョ

ムスキーが指摘しているように最大のテロは国家テロであるというテロに関する認識が一方にあるのだか

ら、テロの概念規定をはっきりとして欲しいという意見が出されました。教区総会ではこの議論はそこま

ででしたが、大変大事な問題がここにあるように思いました。世界認識と言いましょうか、私たちが生き

ています今日の社会が世界大でどのような現実になっているのかについて出来るだけ正確な認識をどうし

たらもてるかということは、牧師にとっても重要な課題だと私は思っています。アメリカが最大のテロ国

家であるという認識は常識のように思われますが、必ずしもそうではないことがこの若い伝道者の発言か

ら知ることが出来ました、宗教的な活動がこの現実社会に生きる人々にどのような影響をもたらすか、私

たちの動機がよければいいという訳にはいきません。マルクスの宗教は阿片なりという批判は今でも無視

できない私たちへの問いかけです。若い伝道者が一方的な情報によってではなく、自分から事柄の真実を

問う姿勢をもって宣教の働きを担ってもらいたいと願わずにはおれません。そのために教区の働きの中で

自分のできることをしていかなければならないと思いました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。個人的な話になるが、3,4日前に近く

カトリック教会の30年前にいた神父さんにバッタリお会いした。その神父さんは今東京の本部にいる

が、懐かしくその頃のことを思い出した。息子から海外協力隊の一員としてダンザニアに行かせてくれと

言われ、うろたえて出来るだけ情報を集めるために動き、最後に遠い国から日本に来てお仕事をしている

カトリック教会の神父さんのところに駆け込んだ。日本に来てお仕事をするようになったのはどうしてな

のかを神父さんから聞きたくて、である。神父さんは、息子さんはいくつになるのですかと聞かれた。28

歳ですと、私が答えると、神父さんは大声で笑われた。それで自分は全部分かって帰って来た。そんな思

い出のある神父さんとの再会だったが、ご近所の方で子どもの頃から教会に行って神父さんになったその

教会でよく知られている人の話をして別れた。この黙想と祈りの夕べも4年が過ぎたが、この会に出て祈

ることによって、自分がうろたえずに穏やかに快日過ごせるこの幸せを感謝している。



       「自由意志と神の救い」(『ルターの日々のみことば』より)

 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。   へブル11:6


 たとえそれが可能であるとしても、わたしは、救いを獲得するためにわたしの手中になにか残されると

か、自由意志を与えられることを望みません。その理由は、単に、わたしが悪魔の悪だくみや猛攻撃にど

のように対処したらよいかを知らないというだけでなく、たとえ、危険も、誘惑も、悪魔もないとして

も、わたしの働きは、空を打つ人のように、不確実なものだからです。もし、最後の日まで生きて働くと

しても、神が満足してくださるような働きをするためにはどれだけなすべきか、わたしの良心は決して確

信することはできないからです。自分のわざによって救われようと努力した人々の体験が語り、また、わ

たし自身も多くのにがにがしい体験を通して知ってきたように、地上のわざはどんなわざであれ、神が喜

んでおられるかどうか、あるいはもっと何か望んでおられるのではないかと、いつも良心に少しの疑いを

遺すからです。しかし、神は、わたしの救いを、わたしの自由意志から切り離し、ご自分のみ旨のうちに

おかれ、わたしの生涯とか働きによるのでなく、神の恵みとあわれみによって支えてくださると約束され

ましたから、わたしは主が真実なかたであり、わたしをいつわられることはないと確信しています。更

に、主は限りなく力強いかたですから、どんあ悪魔も敵も、主に抵抗し、主からわたしを引き離すことは

できません。このようにして、わあしたちは、自分のわざによるのではなく、約束してくださった主の恵

みのあわれみといつくしみによって、神によろこばれる者とされていることを確信します。そしてもし、

つまずいたり、なすべき働きが足らなくても、主は、父の愛によって、わたしたちを許し、さらに良い者

としてくださいます。これこそ、主なる神のうちにあるあらゆるキリスト者の栄光です。

                                     奴隷的意志