なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(230)復刻版

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(230)」復刻版を掲載します。

 
         黙想と祈りの夕べ通信(230[-21]2004・2.22発行)復刻版

 今日は日曜学校中高科礼拝のお話をしました。そのお話の中で私の中高生時代のこと、特に家庭環境や

教会の礼拝に初めて来るようになったきっかけ、そして神学校に父親の反対を押し切って入るようになっ

たことなどを話しました。私は、1957年の中学3年の終わりころまでは、当時としてはある程度恵まれた

家庭環境でしたが、母親の病気と父親の関係していた会社の倒産などが重なり、高校時代、特に2年から

は勉強を続けられる状態ではありませんでした。ある種の閉塞状態の中で悶々としていましたが、友人に

誘われて高3の11月の最初の日曜日だったと思いますが、この教会の礼拝にはじめて来ました。そして、

その年の12月20日のクリスマス礼拝で洗礼を受けました。僅か1ヶ月半位の間でしたが、イエスは自分と

一緒にいてくれるということが当時の私には大きな解放感となったように思います。そんな話をしたわけ

ですが、礼拝後に一人の方が私の所に用件があり話に来て、その用件の話が終わってから、彼は、今日の

私の日曜学校のお話はよかったと言ってくれました。その時彼は、私が自分たちと同じ立場にある人間な

のだとうことが感じられてよかったと言われました。と同時に、いつも牧師として講壇で説教を語ってい

る私が自分たちより高いところにいるように思える。そういう意味で自分たちから遠い存在に思えていた

ので、身近な存在に感じられたと。私にはこの彼の感想が意外でした。私には説教を会衆の上から語ると

いう意識は自分としては全くありません。自分が聖書に問い、聖書から問われるという聖書と自分(もち

ろんこの自分には会衆を意識した自分ではありますが)との往還の中で、自分に語りかけられていると思

われる使信を何とか紡ぎ出そうとしているだけです。何がしかの会衆の共感を期待してです。このスタン

スは自分としてはずっと変わらないでいると思っています。

 (中略)

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。先週自分を育ててくれた叔父がアパート

に息子と二人で住んでいて、4、5日何も食べていないで衰弱しきった状態だったので、救急車で入院し

た。姪である自分が付き添い、その後の対処について、病院のケースワーカーに相談、区役所へ行き介護

認定の申請など、駆け回った。介護保険を受けている人が多くなっているのだが、今回自分で経験して見

て、その利用の仕方が分からないことが多かった。たまたま私は教会にいるそれぞれの分野に関係してい

る人たちから知恵を与えられた。叔父が入院して3日間で今後の大体の道が開かれるのではないかと、心

強く感謝している。今回のことを通して、教会の中でも知識や情報を分かち合えたらいいのにと思わされ

た。例えば奉仕カードにその人が持っている知識や情報を記入する欄があり、そういう情報を集めておけ

ば、お互いに助かるのではないか。病気や介護のことだけではなく、自分はこのことだったら相談にのれ

るといういろいろな分野の情報が集まれば、お互いに助かるのではないかと思わされた。



    「キリストと同じ思いになる」(『ルターによる日々のみことば』より)

 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい。     
                                       ピリピ2:5

 兄弟たちよ、あなたがたもキリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間で

も互いに生かすべきです。キリストは神のかたちであられましたが、父と同じようにあるためにご自分を

高くされず、みずからすすんでご自分を低くされ、しもべのかたちをとられました。そして、あらゆる点

において人となり、人のかたちをとられました。そして、父のみこころに従って死に至られたのです。そ

れゆえ、キリストの兄弟たちよ、この聖句がいかに深く印象的なことばであるか、味わってください。そ

して、わたしたちも同じようにならなければなりません。ここでもキリストがなられたのは、悪人ではな

く、神のかたちをもった人です。すなわち、力と、ほまれと、正義と、知恵と、きよさと、純潔とをも

ち、けっして悪をなさず、徳にみちた人です。だが、それにもかかわらず、キリストは神のかたちを捨

て、わたしたちとひとしくなることを望まれました。神のかたちをとらえようと望んだ明けの明星や、隣

人を見おろして、ほとんど認めることができないかのように誇る高慢な人たちとは、まったく正反対で

す。キリストは彼らにならおうとはされません。反対に、神のかたちを捨て、人のかたちをとり、罪は犯

されませんでしたし、罪を犯すこともできませんでしたが、罪の肉のようになられました。このようにし

て、わたしたちのすべての悩みを背負ってくださったキリストは、人々の前に愚かとなり、侮辱され、あ

ざけられたのです。このかたのうちに、わたしたちの貧しさと邪悪のすべてを見いだすことができます。

しかも、キリストは、わたしたちが自由に主に従えるように、このことをなしてくださったのでした。


                                   1518年の説教から