なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(207)

 今日は「父北村雨垂とその作品(207)」を掲載します。
 
               
              父北村雨垂とその作品(207)
  
  原稿日記「風雪」から(その28)
 
 思想はときに論理に関心を持たない状態に於いて成立せしめる場合即ち論理を疎外する場を持つ場合も

在り得る。がしかし哲学は論理を優先させる場を絶対必要とする。その二つの限界が思想と哲学との差異

とみて差し支えない。

                           1985年(昭和60年)1月5日

 
 意識のうち未だ識にまで熟成していない意、或は意識の内の意までは、熟成しないそれ以前の状態に於

いては、生命の働くところの生物が植物という存在物の動性である。その基体となる機能を確かに存在す

るとみられるもの、基点となるものが核であると考えられる。

 神田聖山氏は禅語録に於いて胡適鈴木大拙の論争について語る中に故(?)胡適の歴史と禅との知識

の不充分であると指摘しているがその中で聖山氏も禅の歴史的環境(境位)についての知識についての缼

点が見える不用意がある様に私には考えられる。

                           1985年(昭和60年)2月28日


 禅は実存的現象学形而上学的宗教で在ると私は考えている。

                           1985年(昭和60年)2月28日


 之の意味に於いてキリスト教と仏教即ち神と仏との同体説が当然に想ひ浮かべられる。

                           1985年(昭和60年)2月28日


 吾々人類を含めての個は、それが、マクロの世界であり、或はミクロの世界であったとしても個である

生きもの、差別の現象があると云うことは、その個物のマクロからミクロに至るまでのそこに内包してい

るところの差別現象を持続している事実は疑う余地は無いのであらう。

 そこに古代ギリシャ哲学即ちソクラテスプラトンからアリストテレスや或はその他の思想人を含めて

現代西欧の思想家が種々に展開されたノエマノエシス或は意識が「心」即ち禅、智恵等々、と指摘する

「何か」即ち「エトヴァス」をその個が体の何處かで現象している事態は否定すべくもないであらう。

「存在する」という意識そのものが世界を構成しているとも云える。この『エトヴァス』なる現象こそ、

個であり、その個の対象となる全が世界である(即ちマクロの)と、それがまぎれもない自然現象である

ことは、疑う余地も無いところであるし、又その様に観ざるを得ないであらう。

                           1985年(昭和60年)1月31日

 無であると云ひ空であるとする宇宙が創造したかにみえる自然現象的マクロの世界は、その現象的世界

マクロの世界亦その自然現象によって創造された個なるミクロの世界が個であり「差別」であり、その現

象世界を意識する故にその意識の対象である現象世界をマクロの世界が全であり平等であると云うことに

なる。然してその世界に対する「エトヴァス」が核でありその核の「用」がつまり「働き」が認識と云う

意識の用であり一般に現象と称するものと云うことができるであらう。

                           1985年(昭和60年)2月1日


 風に跨(の)って 鞭や眞赫(まっか)な 西の駅え    1984年(昭和59年92月5日


 折鶴は 窓でのれたか 風の春      同


 故里え 置いて呉れたか 路しるべ    同

        (長姉の三回忌に)


 俺は風だよ、汝も風だとよ なあポチよ  同