今日は「父北村雨垂とその作品(212)を掲載します。
父北村雨垂とその作品(212)
原稿日記「風雪」から(その31)
禅学の思想の特長は、物、心両面即ち、身、心の両極を共に捨象する處に抜群の特長がある。それが禅
者に於ける「無」であり「空」であって、それは個なるその基体に於いて身、心共々一斉に離脱する状態
を堅持すべく実践する座禅とか止観に於いての行動に明らかに私達に示して呉れる。
1985年(昭和60年)8月22日
座禅に於いて修行者主目標は心身両面を共に離脱する行であり、それは思考を包含する身体を共々に排
除する「無心」の思想が解脱であると云える。
1985年(昭和60年)8月22日
別言を持ってすれば即ち身体から生死即ち生滅を離脱する「無」乃至「空」を意味する意識の構成を完
うする状態に世界を観る想念とも云える。
1985年(昭和60年)8月22日
洞山和尚の禅機(ぜんき)に於ける最高の命題はこの麻三斤に尽きると考えて差し支えないと私は考え
る。その理由は、この咄嗟に発した麻三斤に宇宙→世界現象→自然→本質→本態→存在―現在→時間→空
間の芳を尽く抱擁する機縁を一瞬の間に応えた洞山の回答であり、素晴らしい眞理を表徴する命題―(世
界生成の眞理)即ち仏を指摘するものとして私の心理を圧倒するこれこそ禅の構造を表徴する美くしくも
確かでもある洞山和尚の悟境の発する豊かに而も鋭角の有る禅語であると考えられる。
1985年(昭和60年)8月24日
主観と云うも客観とするも
視覚とするも触覚と観るも
その現象の根源となるものは意識また喜怒哀楽と始め如何なる内的現象もその基盤をなすものは意識で
ある。そしてその意識は吾々身体から分離する可能性は考えられない。それは太陽から発出する光線の様
なものである。即ちその光線は明暗なる現象を通して或る物理科学的動機を通して間接的に現象学的に認
識し肯定することが出来る。即ち宇宙に於ける太陽と云う天体からそれを源泉として鋭い振幅をもつ現象
であることを肯定することはできるが、その光線それ自体は把握することは不可能である様に「意識」も
前述の様な、またその形態は無限とも云えるほどに雑多であるが意識自体もつまりその本体は見ることも
触れることも不可能に近いと云うよりも絶対に把握できないものであり、太陽光線と同様無数の現象が還
元的に承認できる吾々身体から現象するいわゆる「或るもの」なのである。故に宇宙に於けるマクロの天
体は太陽であり同じ天体の一個である地球に於けるミクロの天体が吾々の把握する身体を基盤とする意識
とすると共に容積も重量も絶対に無なる或るものの存在である。西田、田辺両博士を始めいわゆる京都学
派が主張したところの「絶対無」なる表現がどうであったかは吾々民間の考察ではもちろん、それを確信
をもって「左様」と答えることで現在のところ不可能に近いことは残念である。
1985年(昭和60年)9月1日~関東大震災記念日に於いて記す~
葛の葉を ステージに 秋の天才達