なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(194)

 今日は「父北村雨垂とその作品(194)」を掲載します。

             父北村雨垂とその作品(194)
  
  原稿日記「風雪」から(その15)

 禅学における現象の体得即ち実存に依る体験型現象観 ― 換言すれば感触から生成した現象理念 ―

 と西欧哲学から生成した現象学とは、右の様に根元的理念の形態の相異であると云えるが故に、あくま

でも「同行」の可能性は無く、その根元なる発生点に於いて平行線を往く運命を擔っている異質の性格と

も言える訳である。
                       1984年(昭和59年)4月19日

 実存についてのキルケゴールの言葉

 実存は自己であるが、この自己とはおのれ自身に関係し、且つその関係に於いておのれがそれによって

措定されている力におのれが関係づけられていることを知っているような自己である(キルケゴール)。

 ヤスパース著『哲学とは何か』p.277より抜粋

ヤスパース哲学における実存の規定である。ただし他の主著『哲学』や『眞理について』や実存哲学で

はここで「力」といわれているものが『超越者』と云われている〕。
                    
                        (哲学とは何か、ヤスパース)p.277

 現象的生成になるとみられる現象世界的世界のやがて無限に現象を繰り返す即ち無制限に現象を重ね変

化生成する現象を吾人は自然と表現する。即ち現象世界的世界現象の様相が自然様相であり、人為の結果

による現象を人工現象と指名する。そしてそのいづれもその源態を複数の基態によって生成することも確

かである。アリストテレス以後カントに至り亦それに続理性を重視亦神学をも理論に適用したいわゆる現

今に迄継続されて云うアプリオリなる観相がそれである。

                       1984年(昭和59年)4月29日

 禅者は右に言及したそうして現在も継続して採用しているアプリオリに無時間的或は時間以前の空間と

しての宇宙に於ける現象的世界相(態)の生成の世界そのものを「仏」と表現〔表徴〕した。即ち西欧そ

の他の結論的に命名する「神」と結論としては相似のものとなり、唯西欧の神は「一者」であり、東洋思

想に於ける「仏」は時に「神」と並存を形態とする存在としているところに差異の根元がある。

                       1984年(昭和59年)4月29日

 西欧系の哲学に於いて語る「全」は禅者の口に於ては「平等」であり、前者の云う「個」は禅者によっ

て命題とする「差別」であり、この一事によって解るように前者の「全」は「個」の疎外を意味した意義

とする「全」であり、禅者の平等は「個」なる差別を否定することに意義がある。そしてそこに禅者の信

が仏法を基体とする修行が必然性を持つことになる。禅者の絶対的追従なる「行」に於いて修する「信」

は即ち「信仰」であり「帰依」である。それは「正法眼蔵」の内容するところを静思すれば簡単に理論つ

まり悟れる訳である。
                       1984年(昭和59年)5月17日


 漂徴の根元は自然現象である。

 触角→純粋意識→直覚→自然性。表象つまり表現の根源根である対象はその表現の手段として人間が行

使したコトバはとりもなおさず対象を描写するところである即ち対象の模写であると云える。

一般生物が対象を表出することはもちろん意識であり、その道具は觸角でもって意識を刺激することに始

まる。ここに於いて意識はその刺激の様態によって直覚即ちその元様態を純粋意識が直覚する。これを

吾々は直観するこの直感に於ける表象が音声をもって表出するものが言葉となるものと私は考えている。

これは古代のラテン語が今日の吾々に教えてくれている。

 尚以上のことは最も注意して扱うべき課題であると考える故に現在では左記の要件を慎重に検討する要

がある即ち図解すれば、

 生物の觸角→意識(純粋意識)―即自然様態→直覚→即直観→即自然の流動的現象。
 
                     1984年(昭和59年)5月19日