昨日は久しぶりにこのブログをお休みにしてしまいました。一日中なにかと忙しく、ブログに時間をと
ることができなかったからです。来週の月曜日6月3日には、私の裁判の第一回控訴審が開かれます。その
ための準備は大体できていますが、遠方からの傍聴者の確認をしているところです。
今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(215)」復刻版を掲載します。
黙想と祈りの夕べ通信(215[-5]2003.11.9発行)復刻版
名古屋からHさんが訪ねてきました。Hさんは仕事で横浜のホテルに泊まっていましたので、金曜日の
午前8時に教会に来てくださり、午前中話をし、お昼を一緒にして別れました。Hさんは、私より15歳上
の人で、専門は電気でレーザー光線ですが、N大学の教授時代の最後の教室は電気と機械の総合した科で
したし、今回出席する学会は生物化学だそうで、遺伝子の研究ですが、その研究に使う機器に分光技術を
生かすことはできないかということで出席したということでした。すでに自分の教室出身の教え子の教授
の方と共同研究を進めているということでした。Hさんは77歳ですが、専門の研究においても探求心を持
ち続けていることが、お話を聞いていて、伝わってきました。教会でも熱心に関わる方で、ご自身今まで
信仰の面では教会第一で来た人です。今回話をしていて、そのHさんが教会に希望が持てないという主旨
のことを言っていました。今は家族や自分の兄弟姉妹を対象に、現在のいろいろな問題に聖書はどう答え
ているかを文章にして、送っているとのことです。その文章は私の方にも送られてきます。私は名古屋時
代に同じ教会で激しく議論を闘わしたこともあり、あれほど教会のために勢力を注いていた人の口から、
教会には希望が持てないという主旨の言葉を聞くのは寂しい限りでした。
上記の私の発言に続いて一人の方からの発言がありました。先週の金曜日に横浜地区の在日大韓基督教
会との合同礼拝に出席した。礼拝と分団に分かれての話し合いがあった。中傷になるかも知れないが、礼
拝説教も分団での話し合いも、在日の人たちとの集いということがどこまで意識されているか疑問に感じ
た。特に分団での話し合いで司会をした教団の牧師の話し合いの進め方に怒りさえ感じた。話をみんなに
回すのではなく、インタビューみたいに在日大韓基督横浜教会について質問した。礼拝には外国人が何人
いますか、というように。それに対して在日大韓基督横浜教会の方が一生懸命答えてくれていた。沖縄の
教会と日本基督教団との「合同問題」の交流の場で、沖縄の方から何でも自分たちが質問を受けて答えな
ければならないのかという問いかけがあったというが、同じ問題を感じた。
「いつまでも死を見ない」(『ルターによる日々のみことば』より)
「よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがない
であろう」 ヨハネ8:51
ここでキリストが死と、死を見る、すなわち、味わうことの間に区別しておられることに注意しなけれ
ばなりません。わたしたちすべて死なねばなりません。しかしキリスト者は、死を味わうことがない、す
なわち、見ないのです。彼は死を感じることも、おそれることもなく、ちょうど死なずに眠りにおちいる
人のように静かに安らかに死をむかえます。しかし不信心な人は永遠に死を感じ、おそれます。それゆえ
死を味わうこととは、死の力と権威とにがにがしさに関係しているのです。
さてこのような違いができるのは、みことばによるのです。キリスト者は、みことばを待ち、死の中に
もみことばにしっかりとすがりついております。それゆえ、彼は死を見ることがありません。彼はみこと
ばのうちに生命を見、それゆえ、死を感じないのです。しかし、不信心な人はみことばを待ちません。そ
れゆえ、生命を見ず、死のみを見ます。そして死を感じます。それはにがにがしい永遠の死であるからで
す。
これこそ、だれでもわたしのことばにすがるものは、たとえ死ぬ時でも、死を見ないし、感じることは
ないと、キリストが約束された理由です。
こうして、キリスト者がすでに永遠に死からあがなわれ、死ぬことがないということが、どれほど大き
なことを意味しているかがわかります。キリスト者の死と死ぬ時のありさまは、不信心な人の死のありさ
まと外面的には似ておりますが、内面的には天が地と遠いほど違っております。キリスト者にとって死は
眠ることであり、死をとおして生命に移されてゆくからです。しかし、不信心な人は生命から移りゆき、
永遠に死を感じるのです。
1525年の説教から