なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(205)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(205)」復刻版を掲載ます。

         黙想と祈りの夕べ通信(205[-47]2003.8.31発行)復刻版

 先週8月24日の日曜日の黙想と祈りの夕べは休会でした。そこで8月24日(日)から25日(月)にかけて

行われました神奈川教区社会福祉小委員会主催の「障がい者と教会の集い(知り合うこと、触れ合うこ

と、~生活を共にして~)」に参加しましたので、私が教えられたこと、感じたことを書いてみたいと思

います。

 この集いの今年の主題は、「精神を病む人々と共に生きるために」でした。ここ数年同じ主題で集いが

持たれています。今年は4人の方の発題がありました。最初の日には視覚障がい者で心に病を抱えていま

す方と自閉症の子どもを家族に持つ母親である女性の二人が発題してくださいました。2日目には家族に

アルコール依存症の方がいる在日の女性と心に病を持つ方の二人の発題がありました。4人の方の発題

は、それぞれの重荷は異なりますが、聞いている者に重く響きました。その人でなければ語り得ない体験

の固有さと重さに、ただ圧倒されて聞く他ありませんでした。2日目に発題された心に病を持つ方は、去

年も発題してくださいまし。クリスチャンで心病む人が会員になっている会で中心になって活動している

方でしたが、今年は3月から6月までは鬱状態でほとんど何も出来なかったそうです。この方が発題で云わ

れたことが印象に残っています。それは「自分は躁うつ病で薬を服用しながら生活している。薬を手放す

ことは出来ない。けれども、自分として可能ならば、躁鬱を薬でコントロールしないで、躁状態鬱状態

をとことん体験してみたいという願望をもっている。実際には薬を手放すことができないし、社会的にも

受け入れられないので不可能だが」という発言です。心に病を持っている方が、ありのままで受け容れら

れるコミュニティーが必要とされていると思うのですが、そうは多くありません。お話を聞く限り、北海

道の浦河べてるの家は、そのようなコミュニティーのひとつではないかと思います。例えば教会もある意

味で一つのコミュニティーではないかと思いますが、心病む人が礼拝に出席してありのままで受け容れら

れているでしょうか。障がい者と教会の集いの分団でもお話ししたのですが、私は名古屋時代にこんな経

験をしました。私が牧師として働いていた教会に独りの心病む人がいました。この人は、教会からバス停

一つ離れたところにある精神病院に入院していました。教会の礼拝に来るようになり、洗礼を受けたいと

いうので、私はその人の医者の判断を聞いておいた方がいいだろうと思い、その人が入院している精神病

院の院長に相談しました。院長もいいのでは、と言いましたので、洗礼を授けました。その後も時々教会

の礼拝に来ました。けれども、暫く礼拝に来なくなる時がありました。何回かに一回はその人を病院に訪

ねて、話を聞きました。その人は時には開放病棟ではなく閉鎖病棟にいることもありました。なかなか話

してくれませんでしたが、ある時ポツンと言ったことがありました。礼拝に行った時に、他の人からかけ

られた一言が気になって、礼拝に行けないというのです。その一言は、私が聞いても人を傷つけるほどの

言葉とは思えなかったのですが、その人は傷ついたのです。本当に繊細な感性をしていますので、他の人

の言葉や行動が心に突き刺さることが多いのでしょう。心遣いをしながら交わりを深めていく以外に、そ

れを防ぐ方法はありません。そうでなければ、そのような心病む方にとって、教会は居場所ではないとい

うことになってしまうのではないでしょうか。その意味でも、障がい者と教会の集いで「精神を病む人々

と共に生きるために」というテーマで、当事者からの発言を聞くことができるのは、私には貴重な時でし

た。



         「隣人の益を図る」(『ルターによる日々のみことば』より)

 
  わたしたちひとりびとは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。  
                                    ロー15:2


 キリスト者は、ただひとつの目的のために生きています。すなわちそれは、他の人々に善をなし、人を

滅ぼさずしてその悪を滅ぼすことです。しかもこれは弱い人たちと喜んで交わる気持ちがなければ不可能

です。もしあなたが、空腹なものに食物を与え、かわくものに飲み物を与え、はだかの者に着せ、病人を

見舞いながら、空腹なものや、はだかの者や、病人や、かわいた者があなたを訪問して仲間に加わること

をこばむならば、それはばかげた慈善行為になります。もし、邪悪な者や弱い者があなたとともに居るこ

とをこばむならば、それはひとつの魂の聖化の手助けをすることを望まなかったと言うのと同じです。

 それゆえ、このローマ人への手紙から、キリスト者の生活方法は、聖徒や、義人や、きよい民を見いだ

すことではなく、彼らをつくりだすことにあることを学ぼうではありませんか。そして、刑罰、祈り、忍

耐、その他いかなる方法によってでも、このような民をつくることを地上のキリスト者のわざとして、実

践しようではありませんか。同じように、キリスト者は、金持ちや、力ある人や、健康な人を捜し出すの

ではなく、貧しい人を富ませ、弱い者を強くし、病人を健康な者にするために、生きているのです。


                                 降誕節第二主日の説教