なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信復刻版(153)

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信復刻版(153)」を掲載します。

 昨日は、国会前の辺野古新基地建設反対座り込みに参加し、そこで沖縄の平良修さんにお会いし

ました。平良修さんは、今週は東京にいくつかの集会の講師として来られていて、昨日の午後は時

間が空いていたので、国会前の座り込みにいらっしゃったようです。教団のこと、沖縄のこと、そ

して私の裁判のことなどを平良修さんと話す時間を与えられました。夜は、紅葉坂教会で私の裁判

支援会の事務局会があり、そこで主に12月3日の口頭弁論傍聴と報告集会の打ち合わせをいたしま

した。         


        黙想と祈りの夕べ通信復刻版(153[-48]2002/9/1発行)

 8月23日(金)まで10日間私は夏休みでした。24日(土)から通常の働きになりましたが、頭も

体もなかなか休み前の状態に戻りませんでした。25日(日)の礼拝は信徒講壇でFさんの説教でし

たので、徐々に取りもどそうと思っていました。ところが、25日(日)、26日(月)の一泊二日で

都筑区のあゆみ荘で行われました、神奈川教区社会福祉小委員会主催の「障がい者と教会の集い、

知り合うこと、触れ合うこと、~生活を共にして~」に参加しました。その集いの今年のテーマは

「心苦しむ人と教会~精神障がい者をふくむ~」でした。去年も同じテーマで行われましたが、去

年私は二日目だけの参加でしたので、当事者からの発題をほとんど聞けませんでした。今年は全日

の参加でしたので、発題もすべて聞くことができました。心苦しむ当事者の言葉は大変重く、それ

だけに聞く者には「そういうことだったのか」という、新しい発見が多くありました。その発題者

の一人は大阪から来られた方で、躁鬱病を抱えながら活き活きと生きているTさんでした。Tさんは

8月20日頃までは鬱状態だったそうで、何も出来なかったそうですが、20日過ぎから躁状態になっ

たので、発題にも来れたと言われました。「心の苦しみをバネに活き活きと生きる」という題で話

してくれました。同じ表題のレジメも用意して下さいました。一部レジメの内容を紹介します。

「活き活きとした教会は活き活きとした人が作る教会である」。「心苦しむ人と(共にある)教会

は『心苦しむ人』と『苦しんでいない人が作る教会である』」。Tさんは、浦河べてるの家で行っ

ている「活き活きと生きられるようになるためのことばのステップを踏んだ小集団の話し合い」を

自分なりにとらえ直して、行っているそうです。その話し合いでめざすところは、「当事者の回復

であり治癒ではない」。「当事者の社会参加であり、社会復帰ではない」。「回復とは、不便さ

(症状)を持ったまま活き活きと生きること」である。「社会参加とは、不便さ(症状)を持った

まま社会に貢献すること」である。「^嬪澆硫麌釗 δイ蟾腓いない→張り合いがある。・自分

をくじけさせる生き方や態度への固執→考え方を変えることにより新しく生きようと思う。価値

の回復 ・価値のない人間→大切な人間。B仗祐愀犬硫麌釗 ηГ畊腓┐訝膣屬いない→認め合

える仲間がいる。・私は誰の助けにもなれない→私は人の助けになれる。ぞ霾鵑硫麌釗 ι塋悗

の克服(病を治す)情報の欠如→最新の情報の入手」というように、回復の内容を示しています。

私はTさんの話を聞いていて、Tさんが誰一人切り捨てのない社会をめざしていることに感動させら

れました。病気をもっていても持ったままで活き活きと生きられる社会ならば、病気であることに

負い目を感じる必要はなくなります。Tさんはそういう社会をめざしているのではないかと思いま

した。そのためには、みんなが自分の弱さを認めて、そのお互いの弱さを受け入れ合うことが大切

です。そこからお互いの回復、弱くても活き活きと生きられるようになることができるというので

す。他にも障がい者と教会の集いでは多くのことを学びました。体も頭も緊張し、休み前の状態に

戻りました。

 8月29日(木)-30日(金)には「フェミニスト神学の会」が、鎌倉あじさい荘でありました。

男性の参加者は私と当教会のM伝道師とY牧師の3人だけでした。この会のよいところは、女も男も

参加者が対等な関係で話し合うことができることです。今年もいろいろ刺激を受けました。



           果実(『ルターの日々のみことば』より)


 「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶ

 どうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたも

 わたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」  

                                   ヨハネ15:4


 キリスト者でありたいと願う人は、だれも、キリストというぶどうの木から新たに生まれ、そし

て成長しなければなりません。

 わたしが福音により回心し洗礼を受ける時、聖霊が臨在し、わたしをとらえて粘土のひとかたま

りのように新しい被造物へとつくりかえてくださいます。わたしは新しい心と思いと思想を受けと

ります。すなわち、神についての正しい知識と、主の恵みに全く信頼する心を与えられます。簡単

に言えば、わたしの魂の内なる人は新しく造り変えられ、キリストというぶどうの木につぎ木にさ

れた新しい枝となり、主にあって成長します。それは、わたしのきよさ、義、純潔はわたしから出

るのでもなく、わたしによるのでもなく、キリストのうちにのみ存し、キリストから出るからで

す。このキリストのうちに、信仰よりわたしは根をはり、樹液がぶどうの実へと伝わるように、わ

たしは主に似たものとされ、それにより、いまやキリストとわたしはひとつの性質、ひとつの本質

に属するものとなります。このキリストによりわたしは実を結びますが、それはわたしのものでは

なく、ぶどうの木のものです。このようにしてキリストとキリスト者はひとつのパンとなり、ひと

つのからだとなり、キリスト者は本来の実を結ぶようになります。それは、アダムの実でも、自分

の実でもなく、キリストの実であります。

                           ヨハネ福音書14-15章の講解