なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(195)復刻版

 今日は、黙想と祈りの夕べ通信(195)復刻版を掲載します。以下に出てくるM牧師は、本年3月を

もってそれまで働いてきた教会を辞し、山口の方へ転居されまました。     


        黙想と祈りの夕べ通信(195[-38]2003.6.22発行)復刻版

 今日は礼拝説教に引き続き、神奈川教区沖縄交流委員会委員長でもありますM牧師から、「日本基督教

団と沖縄キリスト教団の合同のとらえなおしと実質化」についてお話を伺いました。M牧師はこの問題を

時系列的に追いながら、ご自身で確かめられたことを丁寧にお話し下さいました。この「合同のとらえな

おし」の問題でM牧師のお話から、私が印象深くお聞きした点は、この問題が教団の教会性を根本的に問

う教会論の問題であるという指摘でした。私の中には教団の教会性について真剣に問題にするという視点

が正直なところ希薄です。そもそも教団を一つなる教会として信じるということを、余り考えないで来ま

した。紅葉坂教会に育った私には組合教会の各個教会主義が身についているからでしょうか。あるいは世

代の違いでしょうか。教団に所属しながら教団を一つの教会として信じ、その教団を愛するという点にお

いて、私は少し世代の上のM牧師ほど強く感じられないのかも知れません。教団創立が宗教団体法による

国家の命令という、教会からすれば外的な力によるものですので、その教団を一つなるキリストの教会と

して信じることに躊躇してしまうのかも知れません。いずれにしても、私には希薄ですが、教団がキリス

トの教会ならば、沖縄の教会に対してとった教団の姿勢は、国家と同じ非福音的であると、M牧師は明言

していました。その意味で「合同」問題は、教団が沖縄の教会と福音的な関係を築くためにどうしたらよ

いかという教会論の問題であるという、M牧師の視点が印象的でした。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今日は親戚の仏式による法事に行って来

た。普段教会生活の中で聞くということが自然に自分の中に育っているように思うが、今日の法事でお坊

さんの法話があったが、参加者はそれを聞くという姿勢ではなく、お任せの感じだった。食事の時に「お

坊さんの法話、どうだった」と聞いたら、右の耳から左の耳に通り抜けていって、何も覚えていないと言

った。昨日保土ヶ谷の家庭集会では、80代の方が、私たちが何もしないので、戦争につながろうとする

現在の動きを止められないのではないか、と言われた。聞いてそれに応答して生きるというのではなく、

日本の大多数の人たちはすべてお任せという姿勢が強いように思う。主体をかけて何かをするということ

が少ないように思う。そういう中でキリスト者に求められている責任について考えさせられる。先ほどの

保土ヶ谷の家庭集会の方が、神さまから見たら私たちは怠惰なのでしょうね、と言われたその言葉に励ま

された。何かできたらと、祈る思いである。

 別の方の発言がありました。今の話を聞いて、自分も自分にできることは何かと思い、子どもたちに戦

争を考える展示ボランティアに応募した。もし採用されたら、子どもたちに問いかけて、平和について考

えていくきっかけをつかんでもらえたらと思っている。



        「信仰によってのみ」(『ルターの日々のみことば』より)

 「それがきたら、義について、世の人の目を開くであろう。わたしが父のみもとに行くからである」  
                             ヨハネ16:8,10

 わざもいさおしもなく、ただ信仰によってのみ、人は神に和解せられ、きよめられるという根本真理

は、かたく守って、決してゆるがせにすることはできません。パウロ」モローマ人に言っております

(3:21-22)、「しかし今や、神の義が、律法とは別に、現わされた」と。こうしたことばをわたしたち

はかたく信じ、よりたのみ、動かされてはなりません。それは罪のゆるしと義認とが、わざなしに信仰に

よってのみ与えられることを宣言しているからです。

 キリストがマタイ福音書に語っておられるたとえを考えてみてください(7:17)。「すべて

良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」。このたとえから、良い木をつくるのは実でないことが

わかります。実がなくても、木は良くなければなりませんし、また、良い実がなる前に、良い木をつくら

ねばならないのです。

 このことから、良い行いなしに人がきよめられなければならないことは、疑いをいれない真理であり、

また、良い行いができる前にきよめられなければならないことも真理です。

 それゆえ、人を聖徒とし、良くするために、その人が良いことができる前に、あらゆる善行よりも偉大

で貴重ななにかがなければならないことが、決定的にわかります。それは、人が健全な働きをする前に、

まず、からだが健全でなければならないのと同じです。この偉大で貴重なものとは、尊い神のことばであ

って、福音のうちに、キリストにあって神の恵みをわたしたちに宣べ伝え、提供します。それを聞いて信

じる人はだれでもそれによって聖徒とされ、義人とされます。それゆえ、このみことばは、生命と、恵み

のことば、ゆるしのことばと呼ばれます。しかし、このことばを聞かず、信じない人は、他の方法では決

してきよめあれることがありません。

                             不義の富についての説教