先週はいろいろと忙しくしていました。特に控訴審の準備にあちこちお願いして歩いたりしています。
また、先週から新しい仕事が一つ入ってきて、その準備にも時間をとらなければなりません。昨日は礼拝
後のお茶の時に、3人で映画の話をしていました。その時、私は映画を観てもよく寝てしまうんですよ、
と言いましたら、このところずっと船越教会の礼拝に出席している方が、私の船越通信を読んでいて、
「先生は、あれだけ忙しくされているんですから、疲れているんじゃないですか」とおっしゃっていまし
た。そういう面もあるのかもしれません。別の方からは、裁判にかかわると健康を損なう方もいますの
で、先生も気を付けてくださいと言われました。その気遣いをありがたく思います。確かに裁判はストレ
スになるところがあるように思いますが、今のところ、私も連れ合いも裁判によって体調がおかしくなる
ということはありません。
さて今日は、「父北村雨垂とその作品(182)」を掲載します。父の文章は、自分の思考を整理する
ためのノートのようなものだと思いますが、多分現在掲載しているものは、1983年ごろのものですか
ら、父が脳溢血で倒れて半身不随になってから13年くらい経っていて、父の年齢は83歳前後の時では
なかったかと思います。存在の根源というか、現象の根底というか、それが何なのかということを、父は
究めようとしているように思われます。
父北村雨垂とその作品(182)
原稿日記「風雪」から(その3)
人間の眞に形而上学的な活動は芸術であって ― 道徳ではない。「世界の存在は美的現象としてのみ
是認されるという風刺的な命題 ― いっさいの現象の背後にある「神」といってもよいが、ただしそれ
はとやかく考えることのない全く非道徳的な芸術家としての「神」である。
註:以上のニーチェの言によってもニーチェの「神」観が東洋の禅思想に於ける法即ち仏と云う形式の
ものとはあくまでも対照的であることが解る。またここではいづれを長とし短とするかは別の問題として
おこう。
世界はどの瞬間に於いても神の救済の達成された姿である。なぜなら最も苦悩する者、最も対立的なも
の、最も矛盾に満ちたもの(者)としての神は仮象に於いてのみ救済されることができるのであって、世
界というものはこのような神の永遠に変転する永遠に新しい幻影にほかならない。
このような芸術家的形而上学はすべて気ままで無用で空想的だとも云われるかもしれないが ― その
本質的な点はやがてあらゆる危険を犯して存在の道徳的解決と意義づけに抵抗するようになる一つの精神
をすべて形而上学が包みきれずにあらわしていることなのだ。
註:ここにニーチェがこの世界を現象の世界と認めながらも、その現象世界をあくまで個体ニーチェの
意識に於いて差別を現象に視る一般西欧哲学者と同様に判断しているかが瞭らかとなり、現象そのものを
眞理の本質と観じ「全」なる現象差別をも内に閉じ込め、そのものをも内包する現象世界を眞理の世界
と、或は光明の世界現象とする世界観とは度々云うことだが、天と地との開きがあると見ることができよ
う。
ここでニーチェの芸術家の思想的態度を虚偽の世界のこととして批判していると宗教家の態度を批判し
て居る本書p.16におけるニーチェのキリスト教を好餌とした批判は古賀(現姓土井)虎賀寿氏が「ツァラ
ストラ、羞恥、同情、運命」と題して著した氏の文体から受けた感激を今に想い出し共に青年時代を回想
する楽しさを嬉ぶものである。