なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(184)

 昨日は、船越教会の2013年度の教会総会があり、2012年度の報告と2013年度の方針と事業、会計決算と

予算等が審議可決され、新しい役員4名も選ばれました。私としては船越教会3年目になりますが、裁判を

かかえながらの働きですので限界がありますが、新しい年度も最善を尽くしていきたいと思っています。

 さて、今日は「父北村雨垂とその作品(184)」を掲載します。          



              父北村雨垂とその作品(184)
  
  原稿日記「風雪」から(その5)

 呉茂一著『ラテン語入門』の中で名詞の性について「有性動物は大体一致するが、一般事象や物体はす

べて文法的な性で殊に自然性とは直接に関係はないと云っているが、古代人の環境に生きる生活からいま

いちど深く考えてみる要があるものと考えられる。即ち自然に包含された人類として。            
                          雨 1983年(昭和58年)9月20日



 病葉は 「覚」と応えん秋の陽に            1983年(昭和58年)10月6日


 洞山が渡河の際に、流れ去る水に観た外なる己れの顔と「一ツ」なる内なる顔、即ち「一ツ」なる現象

に二ツなる現象の世界を語る無声の声を聴いたときのおどろきは、そのまま「悟り」の嬉びに轉ずる結果

となった事はその後修業者の「問い」なる「西来意」に「麻三斤」と手許の麻と共に対えたことの意識の

声なき「働き」に眞に紙一枚の間げきも許さぬ明答として吾人に開眼の機を与えている。

                            1984年(昭和59年)1月24日

 現象は一過性をその本態に於いて観られる限り結果的には「無」であり、所謂ノエマもその母体が現象

である限り、「無」が内包するものである個であるとすれば、その根底とするところは当然「無」である

と結論せざるを得ない故に、ノエマは亦当然の結論として命題「無の自覚としてのノエシス」を承認せざ

るを得ないことになる。世人はこの無の自覚なる命題にとまどうことと察せられるが、触覚なり体感と云

う現象を意識に於いて現象を認める限り簡単に否定する様な軽率な行動は軽視して置かねばならない。

 カントをはじめ広く近世西欧哲学もこの世界を「全」としながらも各自として受領した個として、ショ

ーペンハウエルが主張する意志と象徴の世界やニーチェの権力意志、実存、或はヘーゲルの観念的弁証

法、マルクス唯物論による弁証法等々、雑踏を極めた世界論理界は一応清算する機会を確保する要があ

るのではないか。それは禅者の意識構造を現象世界を眞理そのものとする禅者のそれを慎重に検討するこ

とを要請するものである。
                            1983年(昭和58年)10月18日
(續稿)

 尚西欧哲学は個の場から全を考えたことは瞭らかな事実である。その代表的な意見はデカルトのコギ

ト・エルゴ・スムに明らかに象徴されている。即ち西欧哲学はあくまで個を起点として世界を承認し、且

つ実存を認識しょうとする意識が先行していることを吾々は禅者の「全」を観じて個に還元の機会、言葉

を換えて云えば、機縁を体現しようとする修行と信とに発足する行動即ち構造を冷静に観取する要がある

と、私は断言する者である。
                           1983年(昭和58年)10月18日

 眞理なりとする現象型世界像は西欧哲学の個を基体とする世界像とその根底に於いて禅者の思想と大き

く分かれた存在思想となったのである。禅に限ることなく仏法そのものに於いて既に相反する形式を持つ

ものであると云うことができる。そのことは吾人がしばしば見る僧侶の「死者」に贈る戒名に而かもその

最初に「帰え」と冠する一事によって明瞭に判断できる事である。

                           1983年(昭和58年)10月21日