なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(188)復刻版

 今日は、黙想と祈りの夕べ通信(188)復刻版を掲載します。これも10年くらい前のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(198[-41]2003.7.13発行)復刻版

 自分が今生かされて生きているという事実を肯定し、与えられて命をいとおしむ感情の大切さを、私は

寿の講演会でお話しされた北村年子さんから教えられました。そのことは寿地区センターニュースにも書

きました。野宿者を襲撃する少年が後を絶たない現状において、自尊感情をもって生きることの大切さと

その難しさを感じさせられています。一人の人間の成長過程においてその人の中に自尊感情が育まれてい

くには、多くの時間とそれが育つ環境が必要です。忙しい現代社会の生活においては、そのような余裕は

皆無に近いと思われます。でも、可能な限り時間と環境を作り出していきたいと思います。また、今日は

説教で取り上げた聖書箇所から、人間を「良い子」と「悪い子」という形で二分化し、それぞれにレッテ

ルをはって分断する思想の問題性について考えさせられました。聖書の物語でこのような思考様式を前面

に表わしているのは律法学者・ファリサイ人たちです。律法学者・ファリサイ人たちは、徴税人や律法違

反者である罪人たちを自分たちより一段も二段も下の人間に見ました。優劣をもって人間を区分けする発

想は、突き詰めていくと戦争に繋がります。シントラーはある本の中で以下のように記しています。「…

願わくは、この子どもたちが、大人になったとき、人間を『よい人』『わるい人』に分けることをしない

ように。そうしないなら、彼らは世界の平和に貢献するものとなるでしょう」と。自尊感情にしろ人間を

区分けする思想にしろ、その人の内面にあるものがその人の生き方や行動となって外に現れるのでしょ

う。

 以上の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今日は礼拝後昼食会のろばパンがあっ

た。階下に降りて行ったら、6,7名の女性から「合同のとらえなおし」がよく分からないから、教えて

もらえない、と声がかかった。私なりに昨年夏以来の経験を話した、分ったという人とまだ分からないと

いう人があった。そこでこの教会は自由ようね、ということが話題になった。今日も沖縄関係の署名のア

ッピールで、個人の判断で署名してください、と言われた。これは大切なことだと思う。この前の教区総

会で、「『性差別問題特別委員会』再設置を求める件」が諮れたとき、ある議員が「教会には性差別はな

い」という発言をした。さすがに議長はその発言に対して「言い過ぎではないか」とコメントを加えた。

教会の中でともすると牧師の発言が絶対なものとして受け入れられたり、聖書はこう読むんだということ

を、ただ素直に受け入れてきたところがあるのではないか。聖書も時代の産物だし、教会や牧師も相対的

なものであると見直されている教会と、旧態依然とした教会とがあり、随分教会によって違いがあるよう

に思う。今日「合同のとらえなおし」について質問を受けたとき、自分で考え判断していく姿勢を感じ、

励まされた。これからも教会が自由にものを考え、語り合っていかれるところであって欲しいと思う。

 続いてもう一人の方からの発言がありました。今日の黙想と祈りの夕べの聖書箇所の一つの「放蕩息子

の譬え」については、亡くなられたK牧師が4回位説教で取り上げている。要は財産を食いつぶした息子を

無力に迎える父親の姿が神の姿であると。無力な父親は神なのか、ずっと疑問に思っている。神は無力で

あるということは論理としては分かるが、受け入れることはできない。キリスト教信仰にとっての根元的

な問いである。神は全知全能と教えられてきたからである。自分は無力は神の一面であると理解してい

る。南米のコスタリカに行ったが、コスタリカ非武装中立の国である。けれども、盗みが多く、デパー

トの駐車場には銃を持った警備の人がいる。日本に帰ってきて、アメリカのイラク攻撃が始まり、いち早

く日本はアメリカを支持した。南米では殆どの国は反対だが、コスタリカアメリカを支持した。教会で

は解放の神学が語られているが、きれいごとに聞こえるところがある。実際には複雑なのだろうと感じて

いる。



      「神の子の性質」(『ルターによる日々のみことば』より)

 「父と子と聖霊との名によって、彼らはバプテスマを施し……」 マタイ28:19

 信仰深い両親から生まれ、すべて見ならい、両親に似たものとなった子供は、信仰深い子供と呼ばれま

す。この子供は当然両親の全財産と名前、その他いっさいを受け継ぎ、所有します。同じように、わたし

たちキリスト者も洗礼のうちに再生し、神の子とされました。そして、この父とその道に従って歩むなら

ば、み名とすべての富はわたしたちの永遠の資産となります。わたしたちの父の性質はあわれみといつく

しみです。キリストはおっしゃっています。「あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈

悲深い者となれ」。また、「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしに学びなさい」。神

は、正しく、きよく、真実で、強く、まことで、賢いかたでありますが、その他もろもろの神の名はすべ

て、「み名」のひとことの中に含まれています。そして、わたしたちはこれらのみ名によって洗礼を受

け、聖別されておりますから、それらはわたしたちの名となります。そこでわたしたちは神の子と呼ば

れ、どんな人にたいしても、敵にたいしてすら、あわれみ深く、りっぱで、慈悲深く、正しく、真実で、

まことで、親切で、平和を愛し、やさしい心をもたねばなりません。洗礼により神のみ名がこれらすべて

の働きを彼らに及ぼすからです。

                          短銃な信徒のための主の祈り講解