なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(185)

 今日は、「父北村雨垂とその作品(185)」を掲載します。

               父北村雨垂とその作品(185)
  
  原稿日記「風雪」から(その6)

 度々云うようであるが一般哲学者が常用する「無」はあくまでも考えられた無であり、禅者の断ずる無

は感触による命題である。竜樹とその一派が提唱する「空」と亦彼等の感触に由来する故に前者の無はあ

くまでも形而上学的であり、禅者のそれは実存的であると断ずることを憚らない。亦近世からよく『実

存』なる言葉を見聞するが、眞の実存は即ち修行で絶対視する禅者に於いて多く見られ一般者の発言には

かなりの混乱が観られる。そこで私は竜樹一派の云う「空」や一般禅者の命題「無」に換えて「非存在」

と指名する。「非存在」は勿論存在を対象とする言語であるが、そうした意味よりも禅者の断言なる

「無」には「世界現象或は現象を内包する無の世界」「眞理なる無」触覚するニュアンスを存分に把握し

ているからである。
                          1983年(昭和58年)10月22日

 もともと吾々が「世界」と云うことは現象の世界であり、現象を含みその現象を基材として発現した世

界そのものが現象であるとことの現象世界であり、それが吾々の指名する自然であり、それがとりもなお

さず自然界である。即ち自然の世界でもあると同時にこれが禅者が把握するところの自然であり、現象世

界であり、禅者の表徴するところの「無」であり、竜樹一派の云うところの「空」であり、「眞理」也と

決定づける根據ともなっている法と云うも仏と云うも言葉から来る音と異なるも響きに於いて殆ど相違の

ない意識(純すい)の発現でもある。即ち純粋意識なるノエマ命名であり、その命名する使徒がノエシ

スであり、而もそのノエシスの根基なるノエマの形態が無相であり、これが非存在なる言質となっている

ところに禅者をも含めて陥り易い錯となる基体でもある。

                          1983年(昭和58年)10月27日

 一切声(いっさいしょう)是仏声(これぶつしょう) 宇宙・世界の一切の音声はすべて仏の音声である

(真如そのものである)。この眞がそのものとするところに禅学の極地をみることができる。喝を常用す

る禅者の修業による実践の重要な印となっていい。

 仏法でいう眞法、眞如、眞理は同一の意義を表白している。かつて私の指摘した現象学的世界を眞理そ

のものとする仏法に於ける見解はこうした仏法の表白する眞理観を指摘したものである。


                          1983年(昭和58年)11月3日

 仏法殊に禅学に於いては現象の相を因果と観ると同時に自然とするいわゆる現象即自然相と平等視す

る。ここに仏経法に於ける他の宗派と禅とか一畫を成す根源がある。


                          1983年(昭和58年)11月3日

 実在の世界に眞理とか眞実を云う一般哲学者の云うような摘要は、その純正概念に或は純粋概念の意

味に於いてはそのいずれに於いても解決を観ることは出来ない。この点は物、心、いずれの面から観ても

満足な解答は得られない。僅かにフッサール以後ハイディッガー等が継承と同時に展開された現象学的世

界観に彼等の面目を正視しやうとする所に希望があり、そこに救いがある許りである。

                           1983年(昭和58年)11月4日