なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(199)復刻版

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(199)」復刻版を掲載します。これもほぼ10年前のもので、こ

の中に「婦人会」のことが記されていますが、私が在任している時にすでに婦人会はなくなっています。

婦人会という名称や女性だけの集まりを特に教会の中で持つことの意義が問われ、じゃやめましょう、と

いうことでなくなってしまいました。最近葬儀でお会いした年配の女性は、婦人会がなくなってから、い

ろいろな情報が入らずに、教会のことでよくわからないことが多いとおっしゃっていました。


        黙想と祈りの夕べ通信(199[-42]2003.7.20発行)復刻版

 今日は礼拝後婦人会の集会に出席しました。Cさんがノースドック(横浜港にある米軍基地)の話をす

ることになっていたからです。以前から神奈川県は沖縄に次ぐ第二の基地県でありますし、私たちの教会

のすぐ近くにノースドックがありますから、「合同のとらえなおしと実質化」の問題を自分の足元で担う

とすれば、その一つは基地問題ではなかと思っていました。そういう意味で昨年夏に沖縄に行ってから、

彼女がノースドックの監視を続けていましたので、婦人会での彼女の話を聞くことになりました。ノース

ドックを中心に本牧ふ頭などから米軍の軍事物資が運ばれていて、アメリカのする戦争において重要な軍

事拠点であることが分かります。この日の婦人会では連れ合いの他にFさんが、横浜こどもの国や横須賀

に今も残っている強制連行されてきた人々が手で掘られた旧日本軍の弾薬庫としての地下壕のことを話し

てくれました。私は二人の話を聞きながら、記憶の抹消ということを考えていました。ノースドックにし

ても、地下壕にしても、私たちの住んでいますこの横浜という地には、いろいろな場所に戦争の痕跡や拠

点があり、そこには日本の国によって強制連行された人々の犠牲の血がしみついていたり、ベトナム戦争

や今度のイラク攻撃への加担の事実がるということを思わされます。その事実の消去や隠蔽ではなく、横

浜という土地に関わるその記憶をきちっと言い伝えていくことの重要さについて考えさせられました。

 上記の私の発言に続いて、Cさんからの発言がありました。私はたまたまOさんから婦人会でノースド

ックの話をしてほしいと言われ、今日話をした。自分としては今までは自分のしていることを他の人に話

したり、誘って仲間を増やすというのではなく、一人でやるタイプであった。しかし、昨年教区の婦人集

会に参加して、夏に沖縄に行くことになった。沖縄から帰ってからノースドックを監視するようになった

(この頃から自分が少しずつ変わってきている)。知らないことが多かったが、インターネットで調べて

今日は発表した。自分がそうするようになったのは、沖縄の方から自分の足元でやってくださいと言われ

たからだ。自分はおめでたいところがあり、横浜大好き人間で、横浜に遊びに来た人には港やMM21を案

内して楽しんでいた。けれども、今回戦争と結びつく横浜港のもう一つの現実を知った。知ったから何が

できるかと言われれば、何もできないかもしれない。国家的な関係の中で沖縄の人たちを悲しませている

自分がある。教団の中でも沖縄の人たちを傷つけていることを実感する。今回機会が与えられてノースド

ックのことを調べることができ、知ることができ、自分のためになったと喜びを感じている。このことを

感謝し、今後どう自分は担っていったらよいのかというテーマを与えられたと思っている。

 続いて、もう一人の方の発言がありました。私は今の話を聞いて、本郷台にあるアートセンターの企画

である国際平和のための戦争と環境問題の展示のボランティアになったが、自分が日本のことを分かって

いないことを痛感している。このボランティアは展示を見に来る子供たちに、自分で平和を考えるきっか

けを与える仕事である。自分としては日本の国がどうして戦争を起こしたのかということからはじめたい

と思っている。別の話だが、今日は障がい者のスパーツ指導員の初級の資格をとるための講習に行って来

た。そこで、「人の心は何ですか、心理学は何ですか、人の心はどういう形ですか」という問いが出され

た。また、自分が何者であるかが、はっきり分からなければ、人のことを理解できないと言われた。そこ

で「わたしはだあれ?」という設問に対して20の答えを書くことが求められた。同じ質問を今の大学生

にすると、2~3の回答しか書けない人もいるという。今の大学生は自分というものが分かっていない。

そのことは日本が起こした戦争に通じるものがあるように思えた。


         「神の前では罪人」 (『ルターによる日々のみことば』より)


 わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人が義の中で滅びることがあ
 
 る。              伝道(コヘレト)7:15

 
 あなたがたが、罪人であると口で告白するだけでは、十分でありません。とくにあなたがたの良心が安

らかで、なんの試練もうけていない場合、それほどやさしいことはありません。それゆえ、もしあなたが

たが罪人であると口で告白するならば、そのように心でも思い、すべての行為がそれにふさわしくあらね

ばなりません。ところが自分が罪人であると心から認めて信じる人は、ほとんどいないのです。自分で罪

人であると告白しておきながら、その行為や計画にひとことでも反対されると、それに耐えることができ

ず、すぐかんしゃくを立て、自分は忠実で善を行っており、自分に反対することは悪く、自分を捨てるこ

とは間違っていると公言することがどうしてできるでしょうか。なにか少しでも自分に不利なことがある

と、すぐわれを忘れて、自分だけが不正を受けていると不平不満で人々を悩ませるのです。ごらんなさ

い。ここに罪人であることを告白しながら、しかも罪人にふさわしいことを忍んでなすことを喜ばず、義

人や聖徒の権利のみを望む偽善者がおります。

 霊的な方法によって人はどのようにして罪人になることができるでしょうか。それは生まれつきの方法

によっては不可能です。彼はもはや罪人でありますから、その方法では罪人になることはできません。む

しろ心の奥底のかくされた深みにおいてその変化は起こらなければなりません。すなわち、わたしたち自

身の意見とか評価が変わらねばならないのです。聖書と神の働きのすべては、この自己評価の変化にのみ

向けられているのです。

                             ローマへの手紙講解