なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(200)復刻版

 今日も、「黙想と祈りの夕べ通信(200)」復刻版を掲載します。これも約10年前のもので

す。私は、「真理はあなたがたを自由にする」というヨハネ福音書8章32節の言葉を大切にして

ます。また、「他者批判=自己批判}ということも大切にしています。この二つのことが下記には

記されています。     


      黙想と祈りの夕べ通信(200-43]2003.7.27発行)復刻版

 今日は午後に当教会で横浜地区集会が行われました。「これからの日本の教会の使命~信仰告白

と戦責告白との関連において~」というテーマで関田寛雄さんの講演がありました。自分の個人

史、教団の歴史、特に戦責告白と信仰告白について、最後に今日の教会の使命について、大変熱の

こもったお話を伺いました。その中で特に印象的だったのは、質疑応答のときだったと思います

が、たとえマイノリティーであってもその主張に真理性があれば、必ず時代を越えて継承され、い

つか人々に認められる時が来ることへの信頼の大切さを、関田さんは力を込めて語られたことで

す。私も常々そのように考えてやってきましたので、共感するものがありました。先ほど朗読しま

した黙想と祈りの夕べの主日聖書の詩編100編5節には、「主は恵み深く、慈しみはとこしえに

/主の真実は代々に及ぶ」とあります。ここにも「主の真実は永遠に及ぶ」と言われています。こ

のことへの信頼です。どんなに人間が真実を覆い隠そうとしても、その覆いを取り除いて現われる

のが、真実です。ですから、揺れ動いていく情況の中で、私たちがなすべきことは、真実を追い求

めて行く中で、その時々に言うべきことを言い、行なうべきことを行うことだと思います。いたず

らに情況からの情報に左右されてはならないと思うのです。もう一つの聖書個所ルカによる福音書

6章41-42節の言葉です。「あなたがたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の

目にある丸太が見えないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてくださ

い』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、は

っきり見えるようになって、兄弟の目にあるおおが屑を取り除くことができる」。これは他者批判

自己批判ということではないかと思います。人のことについてはいろいろ批判出来ても、私たち

は自分自身のことになりますと、自己正当化したり、自己絶対化して、自分への批判を受け入れよ

うとしないのです。自分に厳しい人間だからこそ、人にも厳しく批判できるし、そのような他者へ

の批判に他者は耳を傾けるであろうということなのでしょう。このことは、名古屋時代にある人が

「天に唾す」(天に唾を吐く)と言いました。このことわざの元来の意味は「天に向かって唾を吐

いても、天にはかからず、自分の顔に戻ってくるだけである。人に害を与えようとして、かえって

自分がひどい目に遭うことのたとえ」ですが、他者批判=自己批判へのいましめとしてもふさわし

いのではないかと思っています。

 この日(7月20日)は山下公園沖での花火がある日でした。黙想の時間はいつも10分ほどと

っていますので、花火の打ち上げが始まる前にと思っていたところ、ちょうど黙想が終わったとこ

ろで、ドーンという最初の花火の打ち上げの音が聞こえました。ちなみに翌日の報道によります

と、この日の花火見物に30万人の人出があったそうです。



       「希望の本質」(『ルターによる日々のみことば』より)

 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではな

 い。なぜなら。現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
 
                                ローマ8:24


 このことばは、もっとも深いところにある情熱として、ただしく理解しなければなりません。愛

する対象を慕う心から生じる希望は、その実現がおくれることによって、愛の焔をいよいよ燃やす

からです。そして愛する対象とそれを慕う愛が、熱烈な希望により、いわば、ひとつになるので

す。そうして愛は、愛そうとしている人を愛しているものの中にとけこませ、希望は希望をもって

いる人を、望んでいる事柄の中へ投げ込みます。しかし、望んでいる事柄を見ることはできませ

ん。こうして希望は人をまだ知らないかくされたもの、すなわち内的暗黒の中に投げ込みます。そ

れによって、望んでいる事柄を知ることができませんが、望んでいる事柄を知っております。こう

して魂は同時に望みとなり、また、望んでいる事柄となります。それはまだ見ていない事柄、すな

わち、希望の中に住んでいるからです。もし、希望を見ることができたとしたら、すなわち、望ん

でいる人と、望んでいる事柄が互いに知りあうとすれば、そのとき、望んでいる人は望んでいる事

柄の中にとけこんでいないことになります。すなわち、もはや、希望と知られない事柄の中に投入

されていないのです。反対に、見えるものに強力にひかれ、知っている事柄の実を楽しもうとする

でしょう。
                         ローマ人への手紙講解