なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(186)

 今日は、「父北村雨垂とその作品(186)」を掲載します。


               父北村雨垂とその作品(186)
  
  原稿日記「風雪」から(その7)


 禅者のしばしば発言するところの『如々』は私の云うところの『禅者の観た眞理』のことであり、現象

学的世界像であり、これが眞実の相世界像であり、とりもなおさず眞実像であり、そこに眞理の実体とも

云うべき世界像を『如々』と表白する訳である。

                          1983年(昭和58年)11月5日

 存在を規定するものは意識であり、意識を規定するものは共に意識であり、デカルトのコギトも実は意

識の現象であり「働き」であることに差違有りとは考えられぬ。コギトは気づくことであり、sentio感ず

ることであり、cogito考えることである。こうした意識の働きであり、現象と云うこともできる。ヘーゲ

ルの歴史も諸精神哲学も論理学も、カントの純粋理性もそれに由来する二律背反も、亦ショーペンハウエ

ルの意志の世界もミーチェの権力意志も悉くその源泉を意識に帰せざるを得ない発言であると云えるし、

結果に於いてそれらは皆これに尽きると云うも過言ではあるまい。西田幾多郎はその著『善の研究』に於

いて意識を細かく検討したのも禅即ち『こころ』に着目した先生の鋭角的な意識即ち禅「こころ」の働き

と観て、その分析に禅学に於いて『無』を絶対視した源泉に終身を捧げた偉大な哲学者であったと感ぜざ

るを得ない。

                          1983年(昭和58年)11月7日


 曹洞宗の洞山良介禅師がその師雲厳の「無情説法」に省はあった未だ解には至らなかった。洞山がその

後修行の途河を渡る際足下を上流から流れ来たり下流へ流れ去る水の尽きること無く、空間時間を繰返し

ている相とその水即ち流れの中に観る己が相に突如として識り得た『如々(にょにょ)』(眞理)の世界を

観た洞山の幸運は一っ時即ち現象学的世界こそ眞実相であると観じたそれ自体こそ「大悟」である。

 (註)無情説法、大自然が修業中の休む事の無い張りつめた洞山の体それ自体が彼洞山そのものであ

り、その彼自体がこの河に流れ續けている水と一体の世界、如々の世界を組み建て、そこに永遠の住居を

捕えた訳である。臨済義玄黄檗から百棒を喰らい大愚の漏らした嘆声に師黄檗の生きた即ち活棒に大悟

した一瞬の時空の場こそ、彼にとって最も重大な一齣であると同時に凡そ禅者の悟りとはこうして眞理の

世界像を『如々の世界』が一体となる相である場に、相い違う場をとらえ得た幸運は一節と観ている現時

点である。

                          1983年(昭和58年)11月

(注意)この一節は自分の体調が最悪であった時に記したものであり、再考すべき点があるも観じては居

るが後日の為に記した。


                  安心と不安 その要因

 識ることは嬉びを意味し、それが近親感であり、安定であるところの同意が基底をなしているこの識る

ことの対照をなす不識即ち無知は悲哀を意味し、そこに疎遠感を意識する。西田幾多郎云うところの純粋

意識→二次的意識やプラトンから発展したフサールのノエマノエシス観の一個の現実感→意識、フッサ

ールのノエマノエシス観とは私に数歩の差がある事実をあえて否定はしない。近親観が安定観を討ちに

包み疎遠観が危機を包含していること、この対象を仔細に見究める要があるのではないだらうか。
   
                          1983年(昭和54年)11月13日