なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(187)

 今日は「父北村雨垂そその作品(187)」を掲載します。

               父北村雨垂とその作品(187)
  
  原稿日記「風雪」から(その8)

 嘗て曾つ

 嘗て私のそていした「禅者の観た眞理」なる「現象を内に包む無の世界」を現在の専門哲学者はもとよ

り一般知識人はおそらく一笑に付する迄もなく汚物の如く吐き捨てて了るであらうが、一流の禅者が常に

発する言葉のうちに ― 無や空は一応措くとしても「仏」とか「三身仏」を繰り返し発言していること

に注目するならば、このナンセンスとしか考えられなぬ言質に天の声とか地の呻きと云った形容が或は理

会されるかも知れぬと折に触れては考える此の頃である。監濟和尚等の「四(?)大色身」なる措定等に

率直な発言であると観る事が不自然であらうか。等等。

                           1983年(昭和58年)11月25日

 洞山の聴いた無情説法なる雲厳の一言と渡河の一齣もその間の消息を伝えている。追言


 釈宗演著枯華微笑

 p.40 信仰についての一応の解説を試みている。

  一、 解信についてその意味即ち大意を語る。

 A、宇宙観について実在ということ即ち仏教で云うところの平等(実在即平等)

 B、現象即ち差別

 C、現象と差別、実在と平等この二つの形態を結びつけた「実在即平等」即「現象即差別」平等即現象

  即実在即差別。

 この三つ意味を同等に即ち一つに(宇宙)大観することの可能性を発言している。即ち無限の時間と無

窮の空間についてもそれ自体が無時間的にまた無空間的に超出している。而も毫も隔たりを感じない。い

わゆる萬里一條の鉄である故に平等界に在っては実に絶対であって、遠近とか長短とかそういう物と物と

相対する形はここには無い。この境界は空蕩々として物のかかわるなしという有様である。

 (註) 下線のところをよく注目すべきで、現在に於ける表現の道具であるところの言葉では良く云い

尽くせぬところの一節であり、禅者の敢えて無とか空とかに依存する不自然を味わされるゆえんである

(雨註)。


 これを根底に置いて「感覚」世界にとどまる即ち五感なり知識なりの外に、そこに障壁を築いている或

るものが存在していない訳であることに注目してこの知識感覚の現象、差別界の一面が直ちに絶対平等の

実在界であると、これが禅者の観た現象的世界という眞理とする禅者の観方であると私は措定せざるを得

ない。宗演はこれを一枚の紙の表裏の如きものとして表白している。即ち表裏合して一枚の紙となるとい

う論理である。これをこの知識、感覚の現象、差別界の一面が直ちに絶対平等の実在界であると云う。が

― この一言により吾人が即座に悟れるというものではない ―雨垂表白―

 宗演はここでカントやフィヒテ、或はヘーゲルの論理の一節を引いてそれの取次ぎをすることにも及ぶ

まいと云っている。そしてここで吾々の意識の働きではなくて宇宙に満ちている実我の働きであるとして

人問う価値はこの自得のするところに在るとして、大乗仏教がその意味を説いているとして、華厳経にあ

る「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生ことごとく仏の知慮、徳相を具有す。ただ妄想執着を以っての故

に、これを証得せず云々」と、これは釈尊が宇宙の眞理を悟られた時に叫び出された言であるとして、一

衆生即ちすべての動植物は勿論、その他の万物、有機、無機体を問わず皆ことごとく仏の知恵、徳相、

換言すればこの不変の一大眞理、宇宙に充ち満ちてる実我を具有せざるものはなく、しかも妄想、執着の

ために障えられて証得出来ないと云ってある、として太陽の光線と蜘蛛の現象を例として説いている。

 そしてここに宗演は「仏」の意識を説いて、仏の眞意と世俗の間に流通している仏の意味を提出して眞

正なる仏を講じている。即ち宇宙に充ち満ちている眞理の相即ち「実在する眞理」なるものを体得するこ

とを提唱している。

                           1983年(昭和58年)11月27日