昨日は、日曜礼拝が終わった後、しばらく礼拝出席者のみなさんと懇談して散会しました。午後6時か
ら紅葉坂教会で第57回かながわ明日の教団を考える会があり、私も準備してその会に出席しました。前半
は、岩井健作さんに発題してもらって、教団宣教研究所から出ている「改訂宣教基礎理論」の学習会をも
ちました。よい学びの会になったと思います。資料として手に入れました、改訂宣教基礎理論への北海教
区常置委員会の意見書をみなさんに配布しましたが、この意見書も見事に改訂宣教基礎理論の問題性を明
らかにしています。教団に属するみなさんに広く読んでもらいたい文書です。この学習会の論議をまとめ
て、これもみなさんにお知らせできないかという提案がありました。今後の課題にしたいと思っていま
す。
さて、今日は、「父北村雨垂とその作品(209)」を掲載します。以下の文章が父本人の思索の跡な
のか、著書からの引用なのかわからないところもありますが、その点はご容赦いただきたいと思います。
これらの文章は、父の死の1,2年前のものだと思います。年齢からしても84歳くらいで、14年ほど半身不
随で殆どベットの生活が続いていた頃です。前にも書いたと思いますが、体が不自由でも思索することと
文字を書くことができる自由が与えられている人間が、自分の境遇を嘆くことなく、表現の世界を楽しむ
だけで、ある意味で満足して一日一生を生きることができるということの証左として父の晩年を観ること
ができるように私は思っています。もちろん半身不随になった父を15年世話をしてくらた兄家族があって
のことですが。
父北村雨垂とその作品(209)
原稿日記「風雪」から(その28)
新緑に 空しや風の 赤と黄に 1985年(昭和60年)3月21日
仏経(教)は基よりキリスト教をも含めて、最も貴重也とするところは、常時実践と信仰を兼ねた修行
を一如とした実存世界を構成した境、即ち実存世界内存在を思考して且つ実践しているいわゆる大自然と
調和すると謂う事に終始して居る。
1985年(昭和60年)3月20日
仏教特に禅に於いてとらえた眞理とは日記四季に於いて把えておいた指考による眞理と同様である。是
れは1984年(昭和59年)11月3日、無門関のp.204の前後頁を讀んで喚帰した境であり、ここに同誌より転
記したものである。
1985年(昭和60年)4月2日
尚同じく玄嵜師著『無門関提唱』p.211とその前後に於いての中p.211の9行に於いてみた件は、宗演師
の著『禅の骨髄』にある「そもの値(あたえ)」と同じ提唱の意と解すべき絶対注目すべき一項であること
を付記しておく。
1985年(昭和60年)4月2日
『無門関提唱』p.211よりその上覧に付記したるものを転写したものである。
無門関第二十三則不思善悪の項に於ける同書p. よりの用は即ち是れ大悟したと雖(いえ)どもその後
に続けて修行を怠たらず実存的態度を実践することの絶対的要請に対(こた)えなければならない。即ち大
悟したと共にその後続けて修行を怠たらず、そうした悟境を維持するために努力精進しなければならぬ。
そのことは偽仰宗の偽山師弟の言でもあり、亦偽山の後継者と仰がれる言からも深く証明しているところ
であり、そこに禅者の実存的行とも云われる悟境を維持することに努めなければならない。即ちそれを怠
る事は即ち俗に帰ることを意味し、時と共に凡愚に帰る事を意味する。
著者玄嵜師の『無門関提唱』中の〔本著p.434-p.442、攫(てき)(?)倒淨(とうじん)瓶(びん)〕に於
けるこうした矛盾した様なものを含む現象的宇宙の世界に於いての眞理と考えられる眞理が体得した眞の
禅者にとっての所謂地獄とか天国となの差別の無い悟道の世界の「境」の体そのものつまり本態が観た或
は味わったのであって、「平等の心、即ち是(ぜ)」であると云う。意識の世界に世界を逆に包摂する状
況が悟道であり、禅に於ける「悟り」である。その故に於いて従来の禅者が眞剣に「無」或は「空」と断
じ「以心伝心」をもってコミュニケーションした心理が宗教的修行なる行意識と共に背負うて来たものと
考えられる。
1984年(昭和59年11月16日)
以上山本玄嵜師著前記頁より写す。
玄嵜師提唱「無門関第四十則に於いて附記しておいた項をここに転写しておく。
1985年(昭和60年)4月10日
本著p.442斯うして矛盾をふくむ現象学的宇宙の世界に於いての眞理が体得した眞の禅者、(或る日本
の哲学者はこれに弁証法的論理によって正当化しようと試みた歴史的時代が在ったがそれはそれとして)
にとっての所謂地獄とか天国とかの差別は無い悟道の世界に『境』の本態を観たのであって「平常是れ即
ち是(ぜ)である」という意識の世界に身体を包含する意識的マクロの世界が大きな課題となって来る。
本項は、原著p.442の附記であって重複すると考えられるが重要な件につき再録する。