なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(233)復刻版

今日は午後、本田哲郎さんを囲む会が都筑区のあゆみ荘で開かれましたので、参加しました。明

日の昼までの会ですが、私は今晩の話し合いまで参加し、その後は船越教会に来ました。明日船越

教会の「シャワーの会」という路上生活者のパトロールがありますので、朝それに参加して、それ

が終わってから鶴巻に帰ることにしています。

 さて、今日は「黙想と祈りの夕べ通信(233)」復刻版を掲載します。


      黙想と祈りの夕べ通信(233[-24]2004・3.14発行)復刻版


 中沢新一カイエ・ソバージュ后愨仂寮の人類学』(講談社選書メチエ)を読みました。これ

中沢新一の講義が本になったもので5巻本の最後のものですが、中沢新一の考え方の基本は、レ

ヴィストロースの「野生の思考」、即ちヨーロパ近代の合理的、科学的な思考とは対照的な古代人

ないしは原住民(先住民)の神話的な思考の再評価がベースになっています。国家、経済、宗教な

どがその成立に遡って論究されていて、なかなか面白く、考えさせられもします。最後の垢呂修

表題「対称性人類学」にも示されていますように、支配や抑圧という非対称的な関係を排し、相互

性を中心とした対称的な関係を他者である人間や動植物や自然、さらには神との間に結ぶことによ

って、未来を展望しようとする、大変意欲的な力作だと思います。中沢新一は、かつてチベット

教(密教)の修行を、確かネパールで体験した人です。『緑の資本論』という本では、キリスト教

の三位一体の教義、特に聖霊論が増殖を重んじる資本主義の成立と関係があるというようなことも

書いていたように思います。私は、近代ヨーロッパの思想が20世紀の戦争をはじめ現在の暴力的な

世界を造り出した元凶であるという指摘には一理あるように思っています。暴力は非対称的な世界

から生まれます。先日大阪で行なわれました研修会に出席していた若い牧師が、自分の説教の言葉

も暴力的になることがあり得るということで、「こわいなあー」と言っていました。自分自身を含

めてそういう感性がいつまでも失われないようにしたいと、彼の言葉を聞いていて思わされまし

た。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。先週神奈川教区の小委員会にて、

今月の3日アメリカ軍の陸軍司令部が座間にできたことを聞いた。もしそうならば、日本の自衛隊

アメリカの極東戦略の中に完全に位置づけられることになる。戦後8年間占領軍が日本の国を支

配して、その後行政的に自立してから50年になる。われわれは平和を当たり前のこことして過ごし

て来たが、日本の国がアメリカの属国のようになり、自立がなくなることを憂えている。

 別の人の発言もありましたが、個人的なことでしたので、この通信の報告では割愛します。

 さて、「黙想と祈りの夕べ」の開催日が4月以降3月21日開催の教会総会の議を経て、第2、第

3、第4、第5水曜日午後7時からに移行することになりました。第1水曜日午後7時からは祈祷

会があります。黙想と祈りの夕べに出席される方はくれぐれもお間違いのないようにしてくださ

い。「通信」は今までと同じように出します。



     「十字架の中に平和がある」(『ルターによる日々のみことば』より)

 
 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与える 
 のは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
 
                                ヨハネ14:27


 この聖句からしられることは、聖霊は、苦しみと悩みの中に沈んでいる人々にのみ与えられると

いうことです。主のおっしゃったことばの意味は、わたしが与える平和は、世が与えるようなもの

と考えてはならないと、いうことです。苦しみが人から切り離される時、世はこれを平和と呼びま

す。たとえば、貧乏である場合、貧乏だからはげしい苦労をすると考え、もし貧乏がなくなれば、

平和と富の中に生活ができるのだがと、なんとかして貧乏からのがれる方法について思いめぐらし

ます。また、きとくの状態におちいった場合、死からのがれることさえできれば、いのちと平和を

持つことができると考えます。しかし、これはキリストの与える平和ではありません。むしろ、主

は、悪が人の上にのせられ、ずっと圧迫し悩ませ続けるままにして、取り去られません。しかし、

主は他のはかりごとを持っておられます。すなわち、その人自身を変えるのであって、人から悪を

引き離すのではなく、悪から人を引き離すのです。

 このように、あなたがたは苦しみの中におかれていますが、主はその中であなたがたの方向を変

え、勇気を与えて、ばら園の中にすわっているかのごとく思わせます。このようにして、死のさな

かにもいのちがあり、逆境の最中にも平和と喜びがあります。これこそ、パウロがピリピ人への手

紙(4:7)で言っているように、人知ではとうてい測り知ることのできない平安です。