去る2月25日にありました私の裁判の東京地裁における判決と私の支援会報告集会・総会の記事が、
キリスト新聞(3月16日号)に掲載されました。また、クリスチャン新聞には3月17日号に掲載されます。
今日は「黙想と祈りの夕べ通信(183)」復刻版を掲載します。
黙想と祈りの夕べ通信(183[-26]2003.3.30発行)復刻版
この黙想と祈りの夕べに最初の頃から出席しています若い一人の方から電話と手紙をいただきました。
病院からです。元気になったら、また黙想と祈りの夕べに出席したいということと、イラクでの戦争に対
する不安と恐れを記し、平和を願う思いが、一枚の便箋にきれいな字で書かれていました。このところ若
者の優しさが効率を求める仕事の現場からの撤退や引きこもりとなっているのではということが、この通
信でも報告されていました。若者の生き難さは、この社会や大人たちが若者に求める規範が、若者の魂を
解放するのではなく抑圧していることを現わしているように思われます。ですから、心に苦しみを負う人
たちを、そのありのままに受け容れる北海道浦河べてるの家の実践が注目されているのでしょう。一人一
人を大切にすることはどういうことなのかを学びつつ、自分もそのことを大切に生きていきたいと思いま
す。病院から手紙をくれた若い一人の方のことを覚えてお祈りください。
上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今日の礼拝後の教会総会で讃美歌21-
371を歌った。平和を願う思いが強くなっている。昨年夏に沖縄に行って以来、ここから最も近い米軍
基地である横浜港のノースドックを気にするようになり、みなと未来の臨海公園やワールドポーターズの
屋上からノースドックの船の様子を見るようにしている。昨日は岸壁に停泊している船の数が少し増えて
いた。出港する様子はない。船が出て行かないように。出て行くなら救援物資のために使われるように祈
る思いだ。イラクでの戦争のニュースを観ていて、何もできない自分を感じている。ブッシュを戦争に向
かわせる彼自身のエートスの中に、ブッシュの信じているキリスト教があり、その特徴には「まじめさ」
があるのでは、ということを、テレビの軍事評論家が話していた。確信をもって何かをするときに、「神
のご加護があるように」と結ばれる。よく教会に電話をかけてくるFさんは、このところよくプロテスタ
ントの信者であるブッシュへの怒りを訴えてくる。信仰がまじめで、自分は正しいと確信して歩んでい
く。それが周囲から見て本当にそうなのかは、歴史が裁いてくれるに違いない。軍事評論家のブッシュ評
を聞いていて、ドッキとさせられた。自分もキリスト者として心して歩んでいかなければならないと思っ
た。別の話になるが、今日は教会総会で、お茶当番が青年会担当だった。男性も女性もそれぞれできるこ
とを助け合って働く姿を見てうれしかった。
今回は少しスペースが空きましたので、Yさんから私宛に来ましたファックスを掲載させていただきま
す。
「前略、やりきれない思いをいだきながら、表面は元気にやっております。/何故、やりきれないの
か。答えはイラク戦争です。どう考えても小生には肯定できない攻撃が、熱心なキリスト教徒を自他とも
に認めている大統領ブッシュによって遂行されている。戦争反対の会合に参加しながら、キリスト者とし
ての現実をどうとらえればよいのか。/このとまどいに一つの答えが与えられたと感じたのが、Kさんの
3月23日に地元の北海道新聞に掲載された記事でした。小生にとって光が与えられた思いだった。/き
っと貴教会でもこの問題に悩んでいる人がいるのではないか、或いは、もうそれを乗り越えて取り組み始
めているのではないか、と考え、ともかく十分に参考になると思ったのでファックスします。/頑張りま
しょう」。(北海道新聞のKさんの記事は掲示板をご覧ください)
「主はわたしのしもべ」(『ルターによる日々のみことば』より)
「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがない
として、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」
(マタイ20:28)
このイエスのすがたを、見て、愛しましょう。神の子が、どれほど貧弱でみじめであざけられた人であ
っても、あらゆる人の罪を負い、しもべとしてこられたことほど驚くべき奉仕となわめのすがたはありま
せん。もし偉大な王の息子がこじきの小屋にはいり、看病してやり、汚れを洗ってやり、普通ならば乞食
のしなければならないことを全部するとすれば、全世界も驚きのあまり、口と、鼻と、耳と、目を大きく
あけたままで、十分これについて考えることも語ることもできますまい。そんなことがあれば、とほうも
ないけんそんのわざであります。
それゆえ、これについてつねに、歌い、語り、のべ伝え、この恵み深い贈り物にたいして神を讃美し、
愛する十分の理由があります。そして、この真理の意味はなんでしょうか。それは、神の子がわたしのし
もべとなり、身を低くして、わたしの悩みと罪を負っくださるまでに至られたということです。主は、全
世界の罪と死をご自分の上に負い、こうおっしゃいます。「あなたはもはや罪人ではない。わたし、わた
し自身があなたの身代わりになったのだ。あなたは罪を犯さなかった。わたしなのだ。全世界は罪の中に
ある。しかし、あなたは罪の中にない。そして、わたしが罪の中にある。あなたのすべての罪はわたしの
上にあり、あなたの上にはない」
だれもこの真理を理解することはできません。わたしたちは、きたるべき世において、神の愛を理解
し、永遠の至福のうちにそれを見つめるでしょう。
ヨハネ福音書一章の講解