なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(184)復刻版

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(184)」復刻版を掲載します。

     
     黙想と祈りの夕べ通信(184[-26]2003.4.6発行)復刻版

 先日久しぶりに千葉上総松岡にあります高齢者のための福祉村とでも言えるところに、Oさんを

見舞いました。昨年秋に伺った時には、Oさんはその施設中の病院に入院していましたが、今は病

院から退院して、以前入所していた老健施設の方にいらっしゃいました。少し小さくなった感じで

したが、安定した様子でうれしく思いました。Oさんはお元気だった頃、この教会のオルガニスト

の一端を担っていてくれました。また、当時住んでいました磯子で合唱団の指揮もしていたようで

す。音楽好きのOさんでしたので、小型の讃美歌第一編を置いてきたことがあります。Oさんがそ

の讃美歌の楽譜をあちこち見て手放そうとしなかったからです。今回お訪ねした時に、その讃美歌

がOさんの荷物を入れるロッカーの中にありましたので、10曲以上、私が一番だけ歌いました。そ

の内の2、3曲には特にOさんの反応がありました。Oさんが安定した様子でしたので、安堵の思

いと共に、現在のイラクでの戦争のことを思いながら、一人の人の存在の重みを改めて考えさせら

れました。また、今日の礼拝後、玄関での立話しでしたが、しばらく前に自分の勤めていた会社の

リストラにあい、失業中の方が、会社の紹介で何とか新しい仕事が見つかりそうだ、と嬉しそうに

言って帰って行きました。彼には家族があり、まだ小さな二人の子どもがいます。失業のまま仕事

につくことが出来なければ、どうなるのだろうかという不安がどこかにありましたが、今日の彼の

話し振りでは、「捨てる神あり、拾う神あり」というように、余り深刻には考えないようでした。

とにもかくにも新しい就職先が決まるかもしれないとの彼の報告を聞いて嬉しく思いました。どち

らも大きな社会のシズテムからすれば、まことに小さな個々人の問題かもしれません。しかし、私

たちはそのような一人一人に思いを寄せて行きたいと思います。Oさんのいらっしゃる所へは、木

更津から久留里線に乗って行きます。車窓からときどき満開の菜の花が見えました。その日は暖か

でしたので、既に初夏を思わせるほどでした。田園の風景は都会に住む者には、それだけで癒しを

与えてくれます。

上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。福祉のラジオの番組で、今まで障が

い者の方が、福祉の受け手として置かれていて、健常者の言うことを黙って受けて来た。しかし、

自分の障がいをもって、ボランティアが出来るのではないかと考え、実践した。健常者に自分のか

らだをどう持ち、支えたらよいか教えてあげる。それがボランティアであると。また、10代から障

がい者になり、30代で受け手からヘルパーを訓練する事業を始めた人がいる。言語は伝わるので、

いろいろな状況で自分の体を用いてヘルパーに指示を出す。車椅子で電車に乗った時、自分が出す

指示と、車掌さんの方からも急ぐように言われた時、ヘルパーはあわててしまう。そんな時、「あ

なたは誰の支持を聞いたのか」と問うという。私自身もヘルパーをやっていて、強い者が弱い者を

助けるという姿勢になり易いが、その人からの声を全面的に聞いているか考えさせられた。誰の声

を聞くのか。このことは信仰においても同じである。イエスの声をどうやって聞いているか、考え

させられる。私たちはともすると、神に求める時に、自分のイメージした神を押し付けていない

か、自分がこの社会でやるべきことの示唆を与えられるとともに、信仰においても、誰の声を聞く

のか考えさせられた。



     「ゲッセマネの苦しみ」(『ルターによる日々のみことば』より)

 キリストはその肉の生活には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかた  に、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。                                       ヘブ5:7

 あわれみ深い父よ、わが主イエス・キリストはなぜおののかれるのですか。神の子が、なぜおの

のかれるのですか。主の苦しみはなんのためなのですか。主は杯を取り去ってくださいと祈られま

した。それはなんの杯でしょうか。それは十字架上のおそろしい死です。しかし、なぜ死なれる必

要があるのですか。主は罪なく、きよい正しいかたでした。それにもかかわらず、神は全世界の罪

を負わせられたからです。それが主に押し迫り、おびやかしたのです。

そこで、もし神がわたしの罪を主に負わせたならば、わたしが罪から解放され、罪を取り去られて

いるのは真実ではないでしょうか(ヨハネは、主を世の罪を取り除く神の小羊と呼んでいます)。

そうだとすれば、わたしはなぜわたしと主イエス・キリストを訴える必要があるのでしょうか。わ

たしは罪人です。悲しいことにそれは真理です。罪はわたしをおびやかします。わたしは悲しいこ

とに、深くそのことを思い、わたしの心はいつも気力を失ってしまいます。わたしは、神とそのき

びしいさばきの前におののきます。しかしそれにもかかわらず、わたしはなにゆえに自分を責め、

イエス・キリストを責めなければならないのでしょうか。あのオリブ山で主はおののきふるえ、

あまりのおそろしさのために血の汗を流されました。そして主をそこへ導いたのは、わたしのがま

んのならない罪なのです。主はわたしの罪を負ってくださったのであり、それは実に重い荷であっ

たのです。しかし、この主の犠牲のゆえに、わたしは罪をいつもゲッセマネにおき、それによっ

て、神とそのさばきの前に立つ時は、わたしのうちに神が罪を見出されることはないと確信をもっ

て希望することができます。

 オリブ山こそ、あなたの慰めではないでしょうか。
                     
                             1545年の説教から