なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(138)復刻版

 鶴巻にノートパソコンが入り、こちらでもインターネットができるようになりました。今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(138)」復刻版を掲載します。    


        黙想と祈りの夕べ通信(138[-33]2002.5.19発行)復刻版

 娘の名古屋時代の友人が、東京で仕事があり、金曜日、土曜日と夜泊まって行きました。彼女は日曜日の朝早く起きてきて、私が小集会室で作業をしていましたら、何かお手伝いはありませんか、と声をかけてきました。そのとき、受付のところで立ち話をしました。彼女は30代に入っていますが、若いときはほとんど宗教には関心がなかったが、最近神社仏閣の前を通ると、自然に祈るようになったというのです。年を重ねるとともに、いろいろな悩みや苦しみが深くなるので、と彼女は言いました。彼女は、ほとんどキリスト教や教会には触れたことがないようですので、礼拝堂へ視線を向けながら、興味深そうでしたので、私はこんなことを話しました。

 キリスト教で祈るときには、祈る相手である神さまと対話していると思ってもらえばよいでしょう。仏教にも経典であるお経がありますが、ほとんどの人はそのお経に何が書いてあるのかを学ぶことはないと思うのです。神道の場合は、もっと祝詞の内容を学ぶことはないでしょう。神社仏閣の雰囲気というか、幽玄なものへの畏敬と、祈る人間の側では自分の願いを投げかけることが、祈りのように思われます。けれども、キリスト教には聖書があり、それは日本語にも訳されていて、私たちが読むことができます。そして神さまやイエスさまが、どのようなことを大切にされているか、私たちに何を語っているか、何をしてくださるか、そして私たちに何を期待しているか、ということが、聖書には書かれているのです。

 ですから、神さまという方がどういう方であるかのかが、聖書を根気よく読んでいくと、少しわかってきます。そういう神さまとお話しするように対話して、自分の思いや願いを述べ、それに対して神さまはどのように思われるかを聞こうとすることが、キリスト者の祈りなのです。

 キリスト教は聖書の宗教ということからしますと、言葉を大切にしているといえるでしょう。人間の側の祈る思いや願いは変わりませんが、キリスト者は見知らぬ神に祈るのではないのです。もちろん完全には人間が神さまのことを分かるということではありませんが、聖書を通して知っている神さまに向かって祈るわけです。

 以上のようにお話しをして、言葉の宗教としてのキリスト教の特徴について説明しました。それにしても、人生の厳しさに触れることを通して、人は求めて生きているのだということを、改めて知らされ、牧師という仕事に携わる者としての責任を感じさせられました。

 上記の私の発言に続いて、一人の兄弟の発言がありました。彼は久しぶりの参加で、ゴールデンウイークに故郷に帰省してのことを話してくれました。故郷の最も古い学校である母校が創立130年を迎え、甲子園にも何度か出たことがある。水曜日にはその母校に行き、後輩に進路の話をしてきた。また、父と一緒に釣りを楽しむこともできた。天気がよく、大変気持ちよかったと。この日は、久しぶりの姉妹の出席もあった。彼がおみやげにとお菓子を持ってきてくれたので、集いの後小集会室でお茶をともにした。

 この日は礼拝後に教会ピクニックが野毛山公園で行われた。お年寄りから幼い子どもたちまで50数名の参加があった。例年ピクニックではオリエンテーリングがあり、数グループに分かれて、主に野毛山公園に答えがある問題に、その場所を探しながら答えを見つけるのである。幸いお天気もよくなり、楽しいひと時をともにできた。

        
        「イエスの名によって祈る」(『ルターの日々のみことば』より)

 「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下  さるであろう」   ヨハネ16:23

 あなたが祈りたいと願う時は、ひざまずくか、立ちなさい。そして、(あなたが自分の罪を認め、よくしていただきたいと望むかぎりは)大胆に、そして、勇気を出して神に語りなさい。「天の父なる神よ。わたしが祈るとき、あなたは答えられます。その答えはしかりであり、アーメンです。それ以外の答えはありません。もしそうでなければ、わたしはもはや祈らず、また、これまでの祈りがまことの祈りであったと認めません。もちろんそれはわたしにそうする権利があるとか、わたしがそれに値するというわけではありませんが。

反対に、わたしはそれに値しないことをよく知り、また、告白します。わたしの多くの大きな罪によって、わたしはよみの火とあなたの永遠の怒りに値するからです。しかしながら、わたしはいささかの従順を示しました。それはあなたのみ子であり、わたしたちの主イエス・キリストのみ名によって祈りなさいというあなたのすすめと命令に従ってきたことです。このはかり知ることのできない恵みの慰めに信頼し、自分の義にはたよらないで、わたしはあなたのみまえにひざまずき、または、立って祈り求めます」

 一方、わたしたちは祈りのうちに神をこころみてはならないということをしばしば教えられてきました。すなわち、神にむかって、時、量、目標、やりかた、人物、どのようにして、いつ、どんな手段で答えられるべきかをきめてはならないということです。むしろけんそんにすべてを主にゆだねなければなりません。主は、その超越した神の知恵によってすべて最善になしてくださいます。そしてわたしたちは、祈りがたとえ見えたところでそうでなくても、もっともたしかな方法で確実に答えられたことを疑ってはなりません。
                        トルコ人に反対する祈りのすすめ