「こう祈りなさい」マタイによる福音書6:5-15、2019年3月17日(日)船越教会礼拝説教
・以前に大分長い間療養型の病院に入っていましたお年寄りの方をお訪ねした時のことです。小一時間ほ
どその方とお話をして、最後に祈って私は帰って来ました。その時のお話の中で、その方のおっしゃった
言葉が今でも忘れられません。その方はこのようにおっしゃいました。「心配事はいろいろあるが、自分
は段々と弱っていき、自分ではどうすることもできない。最後は祈るしかない」と。
・この「最後は祈るしかない」という言葉が、私自身の心に強く響き、ああそうか、私たちが祈るのは、
最後の時なんだということを、のどにつかえていたものがストンと落ちていくように、自分の中で納得で
きたように思いました。
・浄土真宗を興した親鸞は、南無阿弥陀仏という念仏は一生のうちに一度唱えればいいと言ったと言われ
ます。これは、さらに押し詰めて言えば、人間が念仏を唱えようが唱えまいが、阿弥陀の救済はすべての
人に注がれているのだから、その救済に与らない者は誰一人いないのだということを意味すると思いま
す。そこまで言い切れれば、人間が救済のために何かをするということは全く無意味だということになり
ます。むしろ救済された者としてこの娑婆の世界を生きるということに尽きるということになるでしょ
う。実際親鸞は当時の僧侶としては異例でしたが、妻帯して子供ももうけ、世俗の市井の人と同じように
生活したのであります。
・さて、今日の与えられましたマタイによる福音書6章5-15節の箇所は、最初に「祈るときにも、あなた
がたは偽善者のようであってはならない」とあります。偽善者の祈りとは、人に見てもらおうと祈る祈り
だと言われています(5節)。これは結構教会の集会のような、多くの人がいる所で祈る時など、私たち
もつい陥ってしまう偽善ではないでしょうか。神さまに向かって無心に祈るというよりも、周りの人を意
識して言葉を気にして祈ってしまうのです。
・もう一つは「くどくどと祈る」ということです。日本の文化においては親鸞とは対照的に、このくどく
どした祈りが一般的ではないでしょうか。願掛けのように、自分の願いが適うまで祈り続けるのです。
・このように人の目を気にして祈ったり、くどくどと祈るのは、神に向かっている祈る祈りではないと、
イエスはここでおっしゃっているのです。
・もう一度その部分を読んで見ます。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。
偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼ら
は既に報いを受けている。だから、あなたがたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠
れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報
いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人
は、言葉が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父
は、願う前から、あなたがたが必要なものをご存知なのだ」(5-8節)。
・このイエスの祈りに関する言葉を良くかみ締めて読んでみますと、先ほどお話しましたお年寄りの方が
「最後は祈るしかない」と言われたことに、どこか通じるように思えてならないのです。
・「最後は祈るしかない」と言われる場合、その祈りには、「人に見てもらおう」という人の目を気にす
ることなど全くありません。「最後」ですから、何も出来ない自分、死んでいくしかない自分が祈るので
すから、人がどうこうということは全く関係ありません。またくどくど祈る必要もありません。言葉にな
らない神への叫びだけで十分です。
・「あなたがたの父(神)は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」(8節)とイエス
は言われました。正に祈る私たち以上に、神は私たち自身のことをよくご存知でしょうし、私たちに何が
必要なのかもご存知なのです。ですから、突き詰めれば、「神よ、あなたの御心をなさしめ給え」と祈る
だけで十分なのです。
・イエスも十字架を前にしてゲッセマネで祈られた時、最後には「父よ、できることなら、この杯をわた
しから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:3
9)と祈られ言われています。
・「御心のままに」との祈る者は、神の御心がどのようなものであるのかをよく知っています。そして
「御心のままに」という祈りが日常化したものが、「だから、こう祈りなさい」とイエスが教えてくれた
「主の祈り」ではないでしょうか。
・主の祈りは、実際にイエスが教えてくれた祈りなのか、後の教会がイエスだったらこう祈るように自分
たちに教えてくれた祈りとして、当時のユダヤ教徒の祈りに代わるものを主の祈りとして祈るようになっ
たのか、よく分かりません。私は後者ではないかと思っています。
・マタイによる福音書の著者は、イエスが教えてくれた祈りとして、ここに主の祈りを記しているのであ
ります。
・「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。/天におけるように地の上にも。/
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。/わたしたちの負い目を赦してください。/わたしたちも
自分に負い目のある人を赦しましたように。/わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってくださ
い。」
・ボンフェッファーは「神を待ちつつ、祈りつつ、正義を行う」ということがキリスト者の生であると言
い、あのナチズムの時代に自らそのように生き、政治犯として処刑されて、39歳の若さで亡くなりまし
た。このボンフェッファーの言葉によれば、神に祈ることは行動そのものです。
・その意味で「主の祈り」は呪文のように繰り返しただ祈る祈りというのではなく、主の祈りを祈る者
は、主の祈りを生きる者ではなければなりません。「御心のままに」と祈る者は、「御心のままに」生き
る者であるからです。
・ですから、ある人は主の祈りは最大の犠牲者であると言っています。キリスト教の2000年の歴史におい
て、教会において、またキリスト者の仲間において、個々のキリスト者において、主の祈りは数え切れな
いほど祈られてきました。今も祈られています。しかし、口先だけで祈られていても、主の祈りは、主の
祈りを祈る者が祈る主の祈りによって生きる者として祈られてはいないのではないかと。
・もしイエスがこの主の祈りを弟子たちに、そして私たちすべてに、このように祈りなさいと教えてくれ
た祈りであるとすれば、この主の祈りは、祈る者において主の祈りが実現成就する、そのような祈りとし
て、イエスは弟子たちに、そして私たちに教えてくれたのではないでしょうか。
・この主の祈りの一つ一つの祈りで祈られていることはなにかと言えば、前半の三つの祈願は神について
の祈りであり、後半の三つの祈願私たち人間についての祈りになっています。前半の三つは「御名が崇め
られること」「御国が来ること」「御心が天におけるように地の上でも行われること」です。誰よりも神
ご自身が私たちの中で崇められ、この世に神の国が到来し、神の御心がこの地上において実現成就するこ
となのです。神の正義が貫かれ、平和と喜びに満ち溢れて、私たちすべてが生きることができる世界の到
来です。後半の三つの祈願は、私たちすべてに日毎の糧が与えられ、互いの犯した過ちを赦し合い、悪の
誘惑に陥らないで生きていくことです。
・この主の祈りの六つの祈願こそが、神の御心そのものなのです。神の御心よりも私たち人間の思いが
優っている現代社会に生きる私たちですが、十字架を前にしてゲッセマネの園で、「父よ、できることな
ら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のまま
に。」(マタイ26:39)と祈られたイエスに倣って生きていきたいと願います。「わたしの願い」=自己
中心的な私たちの思いが実現成就することではなく、「御心のままに」=神の御心が私たちの中で実現成
就するように祈りつつ、私たちが神の御心のままに生きていけますように、主の祈りを祈り続けていきた
いと思います。
・私は船越教会の礼拝での主の祈りの唱和に、いつも小さな感動を覚えています。今はどう
か分かりませんが、礼拝出席者の人数が100人を越えていた以前に牧会していた教会の礼拝では、主の祈
りの唱和は皆遠慮がちに声が小さかったのです。それと比べますと、船越教会は人数は少ないのですが、
主の祈りは力強く唱和しています。主の祈りを自分の置かれた日常の場の中で実際に生きていけますよう
にとの思いを持って、主の祈りを皆が祈っているからではないかと思います。これからも、そのような思
いを持って主の祈りを祈りつつ、主の祈りを生きていけますように、イエスの背中を見つめて歩みたいと
願います。この祈りが私たちの行動に繋がることを信じて。