今日は、久しぶりに「父北村雨垂とその作品(126)」を掲載します。下記には父の川柳仲間の名前が出てきますが、そのまま掲載させてもらいました。多分父と同じように皆さん既に天上の世界に移られていると思われます。悪しからずご了承ください。
父北村雨垂とその作品(126)
原稿日記「一葉」から(その9)
繊細な意識が大胆な意志を組み立てる。 雨考
朝の陽を拝み蝙蝠を非難する人間が余りにも多すぎる。
ノエシスとノエマ。見るものと見られるもの、意味するものと意味されるもの。西田幾多郎博士は「無の自覚的限定」外論文集~後期~等に於て数千語を費している。禅者は「空」の一語で突破するか。
老子の多辯なる「無」よ。
金子兜太の種田山頭火を讀了。なかなか良く書けてゐるが、結局彼の哲学によって描かれた山頭火であって眞の山頭火ではない様だ。
鉄鉢の中の霰 山頭火
兜太のみた彼の存在は、デカルト的存在ではなく、むしろハイデガー的実存的である。山頭火作品にリアルが必然的に存するところが貴重である。
9月24日付で下村梵君より来信。三太郎先生七回忌の墓参に同行希望とのこと、何分身体不自由なため断念する。彼は三太郎先生亡き後、全くの孤獨である。個人誌「武玉川」を発刊したころも彼の孤獨な性格 ~私は今でも彼を孤獨な人とみている~ が生んだ企画であるものと確信する。三太郎先生を描く梵君の悲壮な心境が、私にはよく讀める。
福島眞澄君から対流の同人になる様に来信があり、富二、哲郎、両君も共にすいせんするとのことであるが、多行型にみりょくを持っている私としては一行詩型の理論に、ぴったりしないものがあるが三氏の好意は有難く受けなければ申訳なく思われるのでともかくも入会して三氏の好意を傷つけないことにした。
分裂は見える結果であって、その素因である状態が矛盾ということであると考へる。故に分裂は何時も、動を内から超えた靜であるとみることが出来る。分裂はその意味に於て詩の宝庫であるとも考へられる。 雨垂考
歴史は動物から、不可思議な「人間」を創造した。それから人間は不可解な歴史を創造する様になった。 雨垂考
眞澄、富二、哲郎の三氏の好意によって、対流の同人となる様、同意を眞澄によって内報があった。事の成否は別として、特に彼女の努力に深謝しなければ相濟まぬ。川柳界と云ふところは別して事なかれ主義の人達が多く、それも無反省の人達の世界故、別の世界に眞を問う機縁を待望してゐたところであり、十分批判を得て反省の糧とする希ひが近付きつつある様に考へられ、今ひと度と、老残にむちうつ積りである。
ふるさとのシーレーノスは力(カー)と啼く唖者
これは哲郎選の途上集に出したものだが、印刷のミスで力《チカラ》が假名文字の力になって作品の意図が消えて残念だった ~その後ふあうすとの年鑑に正しく出てゐる~ 私は之の作品の中心点をこの力(チカラ)に置いていた。それはニーチェの權力意志として生命に於ける力の地位を確認してゐたし、西田幾多郎博士も力の存在を重視して居り、私もここに深い興味を持って居るので。もちろんシーレーノスは烏であり、強力な生活力は私の嫌いな鳥であるがシーレーノスの代表とした訳である。