なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(109)

 今日は「父北村雨垂とその作品(109)」を掲載します。今日はこれから国会前の辺野古新基地建設反対の国会前座り込みに行き、それから船越教会に移動します。夜は船越教会の聖書研究会で上村静さんの『旧約聖書新約聖書~「聖書」とは何か』の序章を読みます。

    1964年(昭和39年)日記(その2)

 1月4日

 昨三日は全くの孤獨が贖いた。夕方まで岳敬は居たが、ほとんど口を利かなかった。夕食頃彼は友人の訪問を得て外出。朝から讀みだしたトルストイ『苦悩の中をゆく』をみてゐた。疾れると眠る。醒めると読む。未だ二、三日はかかりさうだ。純子が居ないのが淋しい。彼女の大切なゴム人形を抱いて床に入る。彼女におきざりされたゴム人形が、如何にも哀れであった。彼女はいつもこのゴム人形を抱いてゐるからである。孤獨を好む私にとって何か矛盾がある様だが、末子の純子は私の唯一の大切な玩具である。彼女のゴム人形が彼女にとって最大唯一の玩具であるように。

“哲学の灯を消す夜明けである暴風雨(あらし)”

マルクスは偉大な経濟学者だと想ふ”

 1月5日

 四日の午後はなんとしても堪へられなくなったので次女C子宅に電話した。純子が歸って来ないからである。電話にはC子が出た。要件は純子を歸へせといふことだけである。
 三時頃歸へると言ふ。坂部氏が来た。彼は二十年程前まで川柳を作ってゐた男だ。酒屋を営んでゐる。紅石の話をしてゐる中に待望の純子が歸って来てほっとした。別に話すこともない。唯傍にゐて呉れれば心が安まるのだ。可愛いい純子よ。

 今日はどこか出掛けようと思うが、なかなか決心がつかぬ。『苦悩の中をゆく』を讀みつづける。純子がトリスを持って来て呑みなさいと曰う。有難う。寺の坊主が年始に来たが面倒だから出なかった。結構純子が代理をして呉れる。全く有難いことだ。

 晴れたかと思うと曇る。曇ったかと思うと晴れる。今日の私のこころのように、馬鹿な天気である。純子にとって私では話相手にはならないらしい。何か解らぬラジオの歌に合わせて歌ってゐる。彼女も孤獨を楽しんでゐるのかも知れぬ。孤獨とは唯一人でゐるということではない。孤獨もまた辯証法的な形成をしてゐるものだ。

 1月6日

 仕事始めで、保土ヶ谷製薬へ行き、午後から道家に招かれて馳走になる。管理薬剤師と二人也。夕方まで大いに呑む。六時退散。保土ヶ谷能登やで宇都宮氏を待つ。八時彼来る。フグで酒六本位も呑んだ様に思う。
 彼に送られて歸宅する。宇都宮氏の話は秘すべきだろう。彼はどうも小膽のようでもあり大膽でもあるようにも考へられる。変人の部に属するか。

 1月7日

 田中氏と会う。いろいろと迷ってゐる様子。彼はいってつで小心だ。自ら飛込んだ道だから悩むことは当然である。悩むことを彼は少しも楽しもうとしない。人間の在り方を知らぬ者は気の毒である。死ぬなぞと言うことは自ら為すべき事ではない。慌てなくとも、ちゃんと死ねるのだ。而もこんな確かなことは外にはないのだ。急ぐ必要は毛頭なし。他人事を語るべからず。うらむべからず。悪い事は一刻も早く忘れる様に努力することが大切らしい。

(父は私の妹で末子の純子を溺愛していました。この日記の頃の純子は高校生ではなかったかと思います。私が神学校に入って牧師になることを、純子は家族を捨てたと思ったようで、かつて元気だった時の純子に「慈郎ちゃんはずるい」と言われたことがありました。母が死んで二年後くらいに私は神学校に入りましたので、その後は父と兄と妹の純子の三人の生活がしばらく続きました。時間を巻き戻すことはできませんが、今の私なら、父と訣別して神学校に入ったあの時、同じ行動をとったかどうか分かりません。神学校に入っていなければ、今の戒規免職処分もないわけですから。人の歩む道は本人の決断なしにはあり得ませんが、本人の決断だけでもないように思えるプラスアルファーが働くのでしょうか。むしろ本人の決断さえも、実は周りからそのような決断をせざるを得ないように働く力によってなされているのかも知れません。その時代や社会の中に投企された個の人生を思わされますが、最初から最後まで受動の能動をどう生きるかということでしょうか。)