なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(8)

 今日は、大分前に教会の機関紙に書いた「牧師室から」を掲載します。

 昨日は6月には珍しい台風襲来で日本列島が混乱に陥りました。このところ自然災害が続きます。人間の環境破壊の影響か、地球が変動期を迎えているのか、よく分かりませんが、何れにしろ、人間は環境世界の安定によってこそ、生存が守られていることを知らしめられています。

                  牧師室から(8)

 戦争を肯定するブッシュのキリスト教への批判の矢が同じキリスト教に関わる私たちにも向けられますが、最近子供への暴行容疑で逮捕された某氏もキリスト教の牧師ということで、またまたキリスト教への否定の感情が多くの人の中に増幅されるかも知れません。後者のようなことがなぜ起こるのかということは、よく考えておかなければならないと思います。

 イエスの時代のユダヤにはいろいろな宗教集団がありました。伝統的なユダヤ教には祭儀を中心とするエルサレム神殿サドカイ派)とシュナゴーグと言われる礼拝や子供の教育が行われる会堂(パリサイ派)がありました。その他にエッセネ派と言われるある種の急進主義者の集団がありました。バプテスマのヨハネエッセネ派の流れに入るのではと言われています。荒野を生活の場としヨルダン川で洗礼を授けていました。クムランの教団のような義の教師を中心にして世俗の生活から離れて厳格な戒律遵守による共同生活をしていたグループがエッセネ派だとも言われています。それに対してイエスは「遊行者」に近く、特定の場所を持たず放浪しながら町から村へと巡回しながら活動したと思われます。エッセネ派の閉鎖的な共同体のような内に閉じられる宗教集団は、オーム真理教のような指導者の神格化と独善が起こりやすいのです。

 イエスの福音は人間と自然の全的な解放であって、独裁者の肯定では決してありません。
                  
                                      (2005年4月)

 九州教区で起こった同じ教会に所属する牧師によるキリスト教教育主事に向けて行われたセクハラ事件に対する控訴審判決(確定)は、ほぼ原告主張どおりに認定されました。判決文によると、「信仰上の教導者として、雇用者として聖俗いずれの場合でも、絶対的優位者としての立場、地位にあった牧師が、セクハラ行為は性的意向を持って、原告を困惑させるためのものであって、倫理的な非難の枠を超え、社会的通念上相当される範囲を逸脱し、原告に対する性的いやがらせ行為といわざるを得ず、被告は民法七0九条の不法行為責任を負うのは明らかである」とあります。みなさんの中には教会でセクハラが行われるなど信じられないと思っておられる方もいらっしゃるかも知れません。事実最近の神奈川教区総会での発言の中にも、教会には性差別はありませんと、はっきり言う人がいました。けれども、以前名古屋である先輩の牧師からこんなことを聞いたことがあります。その牧師は婦人会のメンバーにはスキンシップが大切なんだと言うのです。そして自分は婦人の肩に手をかけることもしていると。その牧師は、あたかもそのような行為が牧会のひとつに価するかのように考えているようでした。当時それがセクハラになり得る行為ではという認識が余りなかった私でしたが、とても自分には無理だと思ったものです。信徒も牧師も人間として対等であるという前提を損なうような牧師の指導性の発揮はあってはならないと、私は自戒しています。
                                      (2005年6月)

 みなとみらいの観覧車の近くにワールドポーターズという映画館も入っている商業施設があります。その三階のフロアーだったと思いますが、若者がよく入っているガラクタやマニアックな本を売っているお店があります。たまに私もそのお店に本を見に行くことがあります。先日そのお店の書棚から中沢新一の『宗教入門』という、中沢新一がテレビで話した四回の講演をまとめた小さな本を見つけて、購入し読んでみました。九一年九月の放映ですから、今から十年以上も前に話したものですが、なかなか面白く、宗教についての中沢の考え方には以前から私が考えてきたことと重なるところもあります。中沢はこのように言っています。

 「宗教的なものに人間が直面する瞬間には、そこに突然、この人間の世界より大きな次元を持ったもの、巨大なポテンシャル(潜在性)を持ったものが横切っていくのを体験します。それに包まれるようにして、自分たちの日常の世界があるということを理解するようになります。その体験をもとにして、この世界とそこに生きることの意味を考え始める~それが『宗教』の最初にある体験だろうと思うのです」。「キリスト教でも仏教でもイスラム教でもどんな宗教であっても、人間が生きているこの世界より高次元な領域があり、それは突然この世界の中に入ってくることがあり、人はそれを体験することがあるのだということを語ろうとしています」。イエス仏陀とはその体験の表現の違いに過ぎないと。
                  
                                      (2005年8月)