「父北村雨垂とその作品(108)」
父の句は既にほとんどこのブログに掲載したと思います。父は自分の句をノートにまとめていますが、一度だけではないようで、そのようなノートが数冊あります。このブログには既に4冊のノートから父の句を掲載しましたが、その中でも重複しているものも幾つかありました。後の遺されたノートの中にも句が書かれてあるものもありますが、日記や覚書、論文のようなものが書かれてあるノートも数冊あります。以下は1964年(昭和39年)の1月1日(元旦)から書いた日記ではないかと思われます。この父の日記も、父の句を理解する手がかりになるように思われますので、掲載できるものは掲載しておきたいと思います。
1964年(昭和39年)日記(その1)
1月1日
トソは面倒なものだ。そこで岳敬と相談、ウイスキーで代用することに決めた。三十一日町内の酒利屋でトリスを買った時そこの娘が「いつも達者で」と愛想を曰って呉れたことが想い出されて。あそこの親父も私より若かったが、とっくの昔に死んでゐたのを、しみじみ回想。結局トリスも余り旨くなかった。トソだってそれは同じであろう。
1月2日
昨年の暮にやや作意が出た時のもの、五句をここに記して、本年の書き出しとする。
銀杏おまえの黄金の絨毯は南を指す
盥の中の風景である歴史
反骨は白い 八ツ手の花の白
ピヱロに目玉の中のそれぞれのピヱロ
冬の蒼天を歩く断層と私
これも暮の三十日に慈郎から電話があり、会いたいと言う。半年ぶりである。夜六時、約束の天野屋で会う。彼は寿司を食い私は酒を呑んだ。
彼はかつて私の唯一の掌中の玉であった。それを私はキリストに奪われた。もっとも反宗教的な父の私がキリストにもっとも期待してゐた子供を、持って行ってしまわれたことは甚だ皮肉である。
轉々と呑んで深夜三時近く帰る。彼は全くと言っていい位呑まなかった。彼もしばらく目に我が家に寝たが、果してじゅくすい出来たかどうか、翌三十一日横浜駅西口で喫茶。伊勢佐木町有隣堂へ行く。晝食を「すえひろ」ですませ彼と別れる。また半年位会えぬかも知れぬ。
どうしてもキリストが気に喰わぬ。たしかにネズミ小僧か石川五右衛門のやうな男だったに違いない。
(1964年の正月は、私が父の反対に逆らって東京神学大学に入学した1963年4月からまだ1年間が経っていませんでした。確か1963年の暮に私が父に会いに行ったのは、改めて神学校入学についての了解を得るためだったと思います。父は息子である私の意志を翻意させることはできないと諦めたようで、勝手にしろと、私を突き放す形で、私の神学校入学をしぶしぶ了解してくれたようでした。神学校に入る時に、父と話した時に、話は決裂しましたが、その時父が私の前ではじめて涙を流したのを忘れることができません。上記の父の日記に記されているような想いを父が持っていたのを知ったのは、この日記をはじめて読んだときでした。)
1月3日
少々空腹を覚えて時計をみたら、午後三時。古いラジオが何やらガヤガヤとやってゐるが、最近著しく遠くなった耳では唯々騒々しいばかりである。スウイッチを切ってさっぱりする。昨夜三人で食べた飯が茶碗でざっと二杯ほど残ってゐたので、これも一杯分ほどあった味噌汁に玉子を入れて晝食をとることにした。始め冷飯に熱い茶をかけてみるつもりであったが、この寒さではどうかと迷ひ、めんどうだが、電気釜で蒸すことにした。
純子(私の妹、死亡)と岳敬(私の兄、死亡)はC子(私の姉、生存)の方へ行って今日は獨りでゐる。貧乏してこのかた、誰一人訪ねて来る者もゐない。現在は全くの孤獨である。
だが孤獨といふ状態は案外いいものである。元来が人嫌ひの性が、静っと黙って、読みたいときに読み、考へたいときに考へ、寝たいときに横になる。何の抵抗もなく、好きなようになれる。孤獨とは全く素晴らしいものである。ニーチェやゴッホの肖像をみたとき、彼等から淋しさが余り見当らない様に想はれたが、そのはづである。今日は一日誰も来て呉れないように期待する。